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「宿命と運命」について考える [Essey]

 今回は「宿命と運命」について「考えてみる」です。

◆宿命と運命という言葉の定義について

 「宿命」は、漢字の成り立ちのように、「命に宿るもの」であり、この世に生を受けたときに与えられた個人の資質のことですね。

 自分が生まれてきた時代、国や地域といった場所、親兄弟、親族、性別、体質、容姿などに対して用いられる言葉です。

 人が「いつ、どこで、どのように生まれるか」は、自分で選ぶことのできない、あとから変えることもできない「初期値」です。

 「運命」は、これも漢字の成り立ちのとおり、「命を運ぶ」というダイナミックな動きを伴った「人生行程」のことです。

 運命は、本人の生き方、選択のしかた、職業、人間関係などの環境で変化していきます。

 運命は、持って生まれた定めである「宿命」と、自分を取り巻く環境とそれに対する本人の選択のしかたなどの「組合せ」が影響していきます。

 例えば、「主人公の運命やいかに」のように、今後の成り行きや可変な将来に対して使われる言葉ですね。

 そのように「運命」は、最初から決まった固定的なものではないのに、ありがちなのは「だって運命だから逆らえない」といった「誤用」をよく見かけます。

 人の誕生のカルマとして変えることができない定めを「宿命」と呼び、個人の選択や努力、日々の行いで変えられる人生の大きな流れを「運命」と呼ぶのになと思うわけです。

 おそらく、「運」という言葉には、善悪吉凶の現象、幸福や不幸、喜びや悲しみをもたらすものとして、人知を超えた超越的な力という意味もあり、これが「誤用」を招いているようにも思われます。

 でも「運」というものは、人々に日々「偶然」に生じることが、その人にとって「良いことか、悪いことか」を判断し、「運が良かったか、運が悪かったか」ということを決めているだけです。

 例えば、複数のサイコロを振った時に、出る目の確率はどれも一定ですが、たまたまゾロ目が出た時に、「運が良い」と解釈するのは人間の勝手な「意味づけ」です。

 自然界にとっては、出た目が「ゾロ目」であろうとなかろうと、何の意味もありません。単なる数字に過ぎません。

 ところが人は、不揃いの数字が出た場合と、ゾロ目が出た場合とで、「意味づけ」を変えてしまいます。

 そこに「何らかの意味」を設定し、幸運、不運、巡合せといった解釈を(勝手に)しています。

◆運命論

 この誤解・誤用を最大化したのが「運命論」です。

 人々に訪れる一切の出来事は、運命によってあらかじめ決定されており、人間の意志や選択は無力であるとする、バカげた考え方です。

 古代西アジアの占星術や、中国の亀甲占いなども、神や天の意志を知ろうとする運命論が基底にあると考えられます。

 だから自分は、それらを理解・認識してからは、占いなんて大嫌いですし、一切信じませんし、ありがちな「おみくじ」なんかも引きません。

◆命運

 「命をどう運ぶか」は、本人次第であり、転じて、今後の成り行き、寿命を意味する言葉でもあります。

 つまり、寿命を短くするのも、延ばすのも、本人次第であり、暴飲暴食・不摂生な生活をしていれば、自分で自分の寿命を短くしているのであり、誰のせいでもありません。

 よく「命運が尽きた」とか言いますが、いやいや「そうしたのは自分だろ」と思います(笑)

◆運命的な出会い

 先ほど「運が良い=確率、タイミング」による「意味づけ」と書いたとおり、「運命的な出会い」であったかどうかは、その人の解釈、意味づけによります。

 日常生活での「出会い」は、単なる確率であり、サイコロを振った時の確率と同じです。

 たまたま、その日のそのタイミングに、出会ったというだけです。

 その「ある人」と出会った時、その「出会い」が「良かったか、悪かったか」を決めるのは自分であり、あらかじめ決まっていたことではありません。

 ある「出会い」に対して、それが「不揃いの目」であったのか、「ゾロ目」としての「意味づけ」をするかは、人々の(勝手な)解釈です。

 自分もこのところ、「運命的な出会い」が続いていて、新たなプロジェクト・新事業の立上げを楽しませてもらっています。

 でもそこには「お互いに理解し合い、お互いを大切に思い、お互いを尊敬し合える」という「共通理解・認識」が必要です。

 どちらかが一方的にそう思っても、他方がそうでなければ、結局は「運命的な出会い」とはなりません。

 「運命的な出会い」とは、片方だけでは成立しないわけで、最初から定められたわけでも、決められていたわけでもなく、流動的で、当人次第な出来事です。

◆マキアヴェッリの考察

 マキアヴェッリ は、「運命と人間」に対して、次のように考察しています。
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「今までも幾度となく述べてきたように、人の運の善し悪しは、時代に合わせて行動できるか、出来ないかにかかっている。

 ある者は激情で行動して成功を収める者もいれば、慎重に行動して成功する者もいる。

 今、栄えている人物が急に没落したり、行動は変えていないのに、運によって栄えたりするのは何故であろう?

 その理由は、彼らの器量や能力よりも、彼らの行動が時勢に合ったかどうかによって、成功は決定されるものであるからだ。

 仮に彼らの成功が永続していたのであれば、それは時代の要求によって、彼らが自分自身を自在に変化させてきた証である。

 運命とは、変化するものである。

 それゆえ人間は、過去や現在に成功している自分流のやり方を続けていても時流に乗っている間は上手くいくが、時代に合わなくなれば失敗するより他はない。

 ゆえに、現在隆盛を極めているといって得意になることも無いし、不遇だといって悲観する必要も無い。」
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 自分に起きる運命は、あらかじめ決まっているわけではなく、どうすれば「自分の運命」を(良いように)変えられるかということを、これほどわかりやすく、力強く看破した論があるでしょうか。まったく見事です。

◆未来の不確定性

 現代物理学の「不確定性原理」によって、位置と運動量は同時に決まらないことが証明され、未来の運命は原理的に知ることはできないことはすでにわかっています。

 運命も、日々の人間の意志によって「幸、不幸」は決定され、日頃の行いや選択の積み重ねにより、結果として変わるものです。

 「宿命のライバル」はあったとしても、「運命のライバル」なんてないわけです。

*「宿命」であれば、そもそも生まれた時代が違えば、ライバルになりようがないわけですが、「運命」は変容していくためですね。

 同じく「運命の人」の「運命の出会い」も、一定の確率の中の「偶然」に対して「これはゾロ目だ」と意味づけるのは、自分自身の判断・解釈であり、主導的なものです。

 よって「これも運命だからしかたがない」と言うのは、明らかに「誤用」です。

 自分の選択が間違っていたからといって、それを「別物のせいにするな」と思います。

 ある偶発的な出遇いがその系列によって内面化され,その系列の新たな展開の出発点となり,いわば必然に転じられるようなとき,特にそれが偶然として意識されるということです。

 自分が生まれたあと、どのような学校へいき、どのような仕事をし、人との出会いの中から、どんな出会いを大切にするかは自分次第です。

 自分からアクションを起こすことで決定され、命をどう運んでいくかを自分で決めているわけです。

 自分の人生は、自分の選択の連続であり、誰のせいでもないし、ましてや「宗教的な神」など、まったく関係ありません。

 すべては自分次第なのに、それが怖いから、それらの決断・責任から逃げているだけです。

 自分で、自分の人生を、どのようにしていくのかは自分自身であり、自分の「運命を切り開く」のは、自分にしかできないことです。

◆理解力と思慮の深さについて

 当ブログの文章を読んで理解できる方も、相当な「知力」の方と思います。

 おそらく多くの方は、このような文章を読んでも良く理解できず、途中で止めてしまうのではないかとも思います。

 この記事についても、最後まで読むことができる方は、相当な「読解力・理解力」のある方であることは間違いありません。

 もちろん、賛同できる部分もあれば、意見が異なる部分もあるかと思います。当然です。

 でもこうして、自分が書いた文章を「理解」してくださる方がおられることは、たいへん幸せなことです。

 これまで人類は、歴史に刻まれてきた「知の歴史=思想史」を、天才たちが引き継ぎながら、次々に「更新」してきました。

 キラ星のごとく、デカルト、スピノザ、パスカル、モンテスキュー、ルソー、カント、ヘーゲル、ニーチェ、ニュートン、アインシュタインと、「史上最高の知能」たちが連綿と築き上げ、「最高到達点」を更新してきました。

 そういう意味では、自分程度の知能では、「数学上の未解決問題」とされる「ポアンカレ予想」「P≠NP予想」「ホッジ予想 」「ヤン-ミルズ方程式と質量ギャップ問題」など、あまりに難解過ぎて、何度読み返してみても、理解することすらできません。

 この「自分の現状」を「事実」として「受け入れられる」かどうかも、「知力の1つの分岐点」なのかなとも思います。

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NHK『欲望の経済史(後編)』レビュー [Essey]

『NHK BSスペシャル 欲望の経済史(後編)』レビュー

 『欲望の経済史 — ルールが変わる時(前編)』を書いてから、随分と時間が経ってしまいました。

 前回のブログ記事の最後に、
「※ 追って、『欲望の経済史 — ルールが変わる時(後編)』に続きます。」
としていました。

 「(前編)」を書いてから少しして、そろそろ「(後編)」を書こうかと思い、続きの番組を観ようとしたら、なんと観られなくなっていました。

 NHKのWebサイト「NHK BSスペシャル『欲望の経済史 — ルールが変わる時』」のページでも、なぜか現在、番組の動画へのリンクはすべて「エラー」となっています。↓

https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/2443/2225565/index.html

 NHKの正式なWebサイトで「NHKオンデマンドで配信中」と記述しているのに、動画へのリンクだけ、すべて「エラー」って、なんともおかしな話ですね。

 つまり、「正規に購入して、番組を観たくてもできない」状態になっていて、「後編」を観られなかったので、書けなかったわけです。

 これはあまりにもおかしいので、「なんらかの圧力が掛かっている」とみるのが自然のように思います。

*ここで言う「圧力」とは、「この番組を観て欲しくないと思う人たち」のことです。

※さらにここで言う「番組を観て欲しくない人たち」とは、このブログ記事の「貨幣経済と金融支配体制を考える<1> 〜 <6> 」に登場する人たちのことを指しています。

 逆にこんなことをされると、「なんとかして続きを観なくては」という気になるというものです(笑)

 ということで、いろいろ手を尽くして、やっとこの度「続きを観ることに成功」したので、「後編」レビューのスタートです。

 すでに観終わった方向けの思い切り踏み込んだ内容なので、まだ観ていない方はご注意ください。

*あくまで個人的な「まとめ」ですので、番組内では語られていないこと、番組での解釈とは違う場合があります。

*そして、ここに書いたことが、自分と違うからって反論する必要はありません。
(あなたが私の受け取り方や考えに賛同する必要はありませんし、私もあなたの意見、考えに合わせて意見を変える必要はありません。)
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NHK BSスペシャル『欲望の経済史 — ルールが変わる時(後編)』より

◆経済学の父 アダム・スミス

 経済学の父と言われ、マーケットの“見えざる手”で有名な『国富論』を著したアダム・スミスは、巨万の富を稼いでいた重商主義者たちが「絶えず、戦争を引き起こさせている」状況に気づいていた。

 さらに「市民を戦争に巻き込む」ため、ナショナリズムを巧妙に高揚させていることも。

 当時のイギリスを始めとする帝国列強が、インドなどの「貿易で莫大な富を得られる植民地」を増やそうと競争し、奪い合い、「戦争が避けられない状況」を作り出させていることを。

 あるいは、植民地側に反乱を起こさせ、その「鎮圧」を大義名分に、戦争を始めさせることも。

 アダム・スミスは、「重商主義という名の帝国主義を推し進めることで、市民が支払うことになる莫大なコスト」を見抜いていた。

 アダム・スミスが当時、すでに指摘していたのは「富の収奪」とそれが引き起こす「戦争のサイクル」からの脱却をしなければならないということだった。

 その巨額の「戦費」を賄うため、国は「重商主義者たち」から借金を繰り返し、その返済のために次々に重税が課せられ、毎日、市民たちが「労働」「仕事」という名のもとに朝から晩まで働かされ、搾取し続けられている。

 アダム・スミスは、軍事力を背景に、独占貿易で富を強奪する「東インド会社」のあり方を痛烈に批判した。

 「東インド会社は、国家並みの鈍重さと、私企業並みの強欲さを兼ね備えた最低の組織だ。」by アダム・スミス

◆国の借金

 アメリカは住宅バブルの時、実は「1ドルの経済成長を得るために、3ドルの負債」を増やしていた。

 今、中国は、「1ドルの経済成長を得るために、4ドルの負債」を増やしている。

 報道などで「ほかの国の成長率はせいぜい2%程度なのに、中国の成長率は6%で凄い」と言われるが、この「莫大な借金の上に作られた虚像」であることを知ったら、同じことが言えるだろうか。

◆投機

 「投機」というのは、誰かが得をすれば、その分、誰かが損をする「ゼロサムゲーム」だ。

 実際の株式市場で「投機」をするのは、マネーファンドを請け負う「銀行、大口投資家、ヘッジファンド」である。

 「投機」は本来、多くの人々の関心事ではない。

 しかし、その「投機」が、現実社会にも多大な影響を及ぼすことが大問題となっている。

 そして、株式の「投機」以上に、多大な影響を及ぼすのが「不動産投機」だ。

 なぜなら、不動産は、国民資産のおよそ半分を占めているためだ。

 よって、日本のバブル崩壊、アメリカのリーマン・ショックのように、実体経済が崩壊し、壊滅的なダメージになってしまう。

 ごく一部の人が「投機」をしているせいで、多くの「投機とは無縁」な一般市民が巻き込まれている。

 それが今の「金融資本主義」の実態である。

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 ↑「後編」を観て、なんとアダム・スミスが当時すでに「重商主義者たち=ユダヤ人による“国際金融支配体制”」を見抜いていたことを初めて知りました。

 学校の授業等で散々聞いた『国富論』の“見えざる手”でしたが、本筋はそこにあったのかと。アダム・スミス、さすがだなと。

 逆に、よく対比される「ケインズ」の思想が「ユダヤ系国際金融マフィア」のベースになっていることも知りました。

 ケインズは、経済に対する「国家の介入」の必要性を主張したのです。

 これは「国が積極的にお金を使うことで、景気を支える」という考え方です。

 しかし、それは「政府の権力」を強くし、すべてをコントロールする「国家主義」とつながる危険思想へと変容されていきました。

 これを感じた「20世紀の“知の巨人”ハイエク」は、ケインズの思想を「隷従への道」と呼び、激しく批判しました。

 国家権力が強まり、政府の権限がとてつもなく大きくなれば、さまざまな規制が強化され、国家による「戦争のための経済活動」計画が推進されていくからです。

 軍事的な目的に合わせて、モノの生産量がコントロールされ、勝手な「徴兵制度」によって、強制的に、労働者が兵士へと変更されるのです。

 このように「ケインズの思想」は、「ユダヤ系国際金融マフィアの代弁者であった」または「(本来の趣旨とは違って)悪用された」と受け取るのが自然と思われます。

◆新自由主義について

 さらに、ミルトン・フリードマンは「マネタリズム」の方法論を生み出し、「新自由主義」を主張しました。

 これは「国家にお金の印刷を任せておけば、常にインフレを引き起こせる」という考え方です。

 しかし実際には、国家ではなく「独立する中央銀行」が「マネーの量を決定」しています。

 なぜなら、主要国の多くが「国で通貨を発行できない」からです。

 もっとも大切な「通貨発行権」を、ユダヤ系国際金融マフィアに奪取され、国家の通貨を「単なる株式会社が発行している」という異常さです。

 もちろん、「日本銀行」も株式会社です。

 「イングランド銀行」も、「アメリカのFRB」も、「各国の中央銀行」はことごとく、ユダヤ金融マフィアが最大株主になっている株式会社です。

※詳細は、このブログ記事の「貨幣経済と金融支配体制を考える<2>」をお読みください。

 『NHK 欲望の経済史』(前編・後編)を通して観て、

「ユダヤ教の特殊性」により、「時間が経過するだけで、莫大な富を生み出す魔術=利子」を活用して、「ユダヤ系国際金融」が「国への高利貸し」を行うための「重商主義」を生み出し、それが「国家主義を強化させ、戦争を引き起こす」ということを、「アダム・スミスは当時すでに看破していた」

ということがよくわかりました。

 自分の中で「何かおかしい」と感じていた「多くの違和感」が、この番組のおかげで、「そうだったのか」と、かなり納得することができました。

 こういう良質な番組が、以前は観られたのに「NHKオンデマンドで配信中」と記述されたまま、現在は「エラー」と表示されて「観られない」という現実の「異常さ」が、真相の正しさを逆に証明しているように思えます。



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