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人間は5感なのか [Essey]

 古来から、人間の感覚機能は、5分類の「五感」と言われます。

1.視覚
2.聴覚
3.嗅覚
4.味覚
5.触覚

 もともとは、古代ギリシャ、アリストテレスの分類に始まるようですが、この伝統的な分類に、昔から違和感を感じています(笑)

 なぜなら、言葉としてすでに「直感」「山勘(勘が当たる)」という語句、概念があるからです。じゃあ、これらは何なんだと(笑)
 「5」じゃないよねという(笑)

 そして、五感を超える、理屈では説明しがたい、6つ目の「第六感」という言葉もありますね。

 シャマラン監督、ブルースウィリス主演の「sixth sense」という映画もありました。
 映画では「霊感」(霊性意識)として表現されていました。

 でも、自分自身ではっきりと、認識できている「人間の感覚機能」は、次の「11感」あります(笑)

6.平衡感覚(バランス感覚:自身の“中心点”を感じ取れる感覚)
7.時間感覚(どのくらいの時間が経過したかを感じ取れる感覚)
8.位置(方向)感覚(俯瞰した目で、位置関係を感じ取れる感覚)
9.運動感覚(運動時特有の、ボールの方向性や着地点などを感じる感覚)
10.危険察知能力(センサー:危険性を感じ取れる感覚)
11.他者からの視線を感じ取る(センサー:いわゆる“気配”を感じる)

 ここまでの「11感」は、ほとんどの人が、日頃からよく感じる「感覚機能」と思います。

 さらに、そこまで明確ではないけれども、「いつもではないけど、たまに」とか「緊急時には」とか、「なんとなく」といった不定期で、深度もさまざまなものがあると感じています。

12.直感・インスピレーション(ひらめき・瞬間的に感じる感性)
13.何かを選択する時の勘(山勘:たぶんこっちと思い、結構当たる(笑))
14.予知(虫の知らせ:何かの前兆を感じ取る感覚)
15.デジャヴ(既視感:実際は一度も体験したないのに、既にどこかで体験したことがあるように感じられる感覚)

 ということで、自分は、少なくとも「15感はある」と認識しています(笑)
 たったの「5感」のわけがないです(笑)
 そんなの「人間の感覚機能として」少な過ぎるでしょうと。

 あるいは、病気や事故などで、視覚や聴覚を失った方が、その後、別のセンサーが先鋭的に発達していき、日常生活を補完していることは、よく見聞きすることです。

 実際には、人間には、かなり高い能力があり、日々、その能力を研ぎ澄ましていくことで、相当な能力を発揮できるように思えます。

 イチロー選手の活躍やインタビューなどを見聞きすると、特にそれを感じます。

 日々、(ぼうっとしていないで(笑))「自分で自分の感覚を研ぎ澄ます」ようにしていないと、もったいないですね(笑)

「やる気」=「強い意欲」とは何かを考えてみる [Essey]

 よく「やる気が出ない」「モチベーションがわかない」という話を聞きます。

 なぜなのかと考えてみると、「やる気」=「強い意欲」の原動力は「欲求」です。

 マズローの「欲求段階説」ですね。
http://www.innovetica.com/resource_02.html

 「こうしたい」「こうなりたい」「これを達成したい」といった「欲求」がないと、「やる気」が出るはずがありません。

 例えば、「学校での勉強にやる気が出ない」という人に対して、「勉強したくでも、貧困や戦乱などで勉強できない人もいる。勉強できる恵まれた環境にいるのだから、勉強しなさい」と言われても、「やる気」は出ないでしょう。

 一昔前の「高度経済成長期」では、このような「外発的動機づけ」が「良い大学に入って、大企業に入れば、幸せな人生が送れるのだから、勉強しなさい」でしたが、今ではすっかり空虚なものとなりました。

 このような「辿り着くべきゴールがぼやけている」状態では、普通の人間なら、「やる気」など出るはずがなく、勉強したい意欲がわかないのは、むしろ普通です。

 「環境がありがたいんだから勉強しろ」といった程度の「外発的動機づけ」をしたところで、長続きしませんし、心から意欲的になれませんし、強制されている感覚、「仕方なくやっている」感じにならざるを得ません。

 そうではなく、その人に、どんな「欲求」を喚起させるかですよね。

 自ら「やる気」を出すには、「内発的動機づけ」が必要であり、例えば、目標への達成欲求、自己成長欲求、達成感、満足感、充足感、自己への報酬などですね。

 この「内発的動機づけ」に裏付けられた、興味や意欲によってもたらされる行動は、そのように「行動する」という「行動そのもの」が目的化するので、誰にも何も言われなくても勝手にやるし、たとえやめろと言われてもやり続けます。

 それこそ「好きこそものの上手なれ」ですね。

 「好き」なことは勝手にやるし、「情熱」のレベルが違うし、寝食を忘れて、夢中になり、没頭します。

 「好き」なものには、勝手に情熱が湧き出し、高いレベルのモチベーションを保ち続けられます。

 そういう意味では、東京大学合格者へのヒアリング番組とか観ていると、多くの人が「勉強すること自体が好き」と答えていますね。

 「勉強する」という「行動」が好き、ということですね。

 「外発的動機づけ」で無理強いするのではなく、その人にあった、その人が夢中になれるだけの「内発的動機づけ」を喚起するということですね。

 「こうなりたい」「これを達成したい」「これを実現したい」から、そのために「今、この勉強をする」ということですね。

 サッカーでも、「試合に勝ちたい」「優勝したい」「選抜に入りたい」から、そのために「今、きつい練習をする」「毎日筋トレして筋力をアップする」というのは同じですね。

 その人なりの「内発的動機づけ」さえ見つかれば、たとえ止められても、勝手にし続けます。

 自分の場合を考えてみると、子どもの頃からずっと、自分の「やる気」=「強い意欲」の原動力は、とにかく、ひたすら「頭が良くなりたい」ということだったのかと思います。

 たとえ、一歩でも、二歩でも。

 毎日、半歩ずつで良いから、少しずつ「頭が良くなったらいいな」という「強い意欲」です。

 その「強い意欲」に対しては、「達成目標」も「ゴール」も「成功報酬」も必要ありません。

 なぜかと言えば、まず「頭が良い人が好き」です。いいな、羨ましいな、自分もあんなふうになりたいなと思います。

 そして、わずかずつでも「頭が良くなっていく自分」が「好き」です。

 今思うと、学生時代の自分は、なんて馬鹿だったのだろうと思います。ひどかったです(笑)

 少しは向上している自分が好きですし、もっともっと向上していきたいという「強い意欲」に溢れています。

 よく「その行動は、内発的動機づけによるものか」という自己チェック方法として、
「それは、頼まれなくてもやりたいことですか?」
「それは、お金を払ってでもやりたいことですか?」
というのがあります。

 自分は、頼まれなくても、お金を払ってでも、頭が良くなりたいです、と断言できます(笑)

 それが自分にとっての「自己実現」なのかもしれません。

 といったメンタル面とあわせて、「やる気」の源は「ドーパミン」なので、これも十分に分泌されるだけの体調管理も必要ですね。

 運動・ホルモンの調節、意欲・学習・感情に関わる神経伝達物質であるドーパミンの原料は、たんぱく質なので、必須アミノ酸やアミノ酸を含む食品を取ることが大切ですし、ビタミンB群、ミネラル(鉄分)が必要となりますね。

 そして、運動、笑う、音楽を聴く、歌うことがドーパミンの放出を促しますね。
http://kokoroup.net/dopamine/

『「どんなこと」でも深く考え、すぐにわからなければ考え続け、自分のオリジナルのロジックを構成・構築し、自分のオリジナルの結論を導き出すことこそ、脳のトレーニングであり、自分の脳を成長させるための方法である。』by Virai

「自由」について考えてみる [Essey]

◆「自由」とは

 「自由」とは、人間が「個人として独立した状態」のことであり、真の「自由」を実現するためには、(集団から)「孤立する勇気」が必要になります。

 その逆の「服従」とは、「従属(隷属)」を求める「依存体質」に基づくものであり、自己を肯定しきれない「不安な人」が支えとするのが「集団への帰属」です。

 あえて、自ら(自由を放棄し)「個」を消してでも、集団に帰属することで、(潜在的なものも含め)安心しようとする意識です。

◆「集団への帰属」を欲し、比較ばかりする意識

 その場合、「集団への帰属」が最終目標であるため、帰属を完了すると、「他の集団との優劣」を気にかけるようになっていきます。

 自分の家と隣の家、自分の学校(会社)とほかの学校(会社)、自分の住む町、県、国、と帰属する集団の優劣ばかり、気にするようになります。

 真に「自由」な人は、「個として独立」しているので、集団同士の優劣など、そもそも興味がありませんし、どちらだろうと意に介しません。

 学校も会社も関係ない、どこに住もうと関係ない、どこの国だろうと関係ない、という意識こそ、「自由」であることの証です。

 どんな集団(国でも民族でも)でも構わないので、より「どっちの集団(国)が優れているか」など、どうでも良いこと、と認識しています。

 「真に自由な人」(集団への従属から自由な人)にとっては、日本だろうと、韓国だろうと、中国だろうと、欧米だろうと、どうでもよいのです。

 真に「自由」な人は、いつでも、どんな「集団」からでも「自由」に離脱できるし、孤立への不安などないし、怖がったりしないし、自由な意志を持って、躊躇なく行動できます。

 集団への「帰属」とは異なる、参加・離脱が自由な「緩やかなグループ」を形成することだってできます。

 そこに、どんな国の人、民族が参加していようと、まったく意に介しません。

◆「集団」ではなく「個」であることが「自由」の源

 あくまで「集団」ではなく「個」なので、その人自身を、1対1で、評価するのです。

 その人が「人としてどのレベルにあるのか(成長できているのか)」という視点であり、「いい年をした中高年でも、精神性は小学生レベル」なのか、10代であっても「とても高い精神性を持つ」のか、という点です。

 例えば、「他人に危害を加えるような言葉をサイトに書き込み、威力業務妨害で逮捕されるような人」は、年齢が何歳だろうと精神性は「幼稚園・小学校レベル」でしょうし、イチローやキングカズなどは、10代から「社会人どころか、真のプロフェッショナルと言えるほどの精神レベル」に達していたわけでしょう。

 人は成長しようと望み、そう努力し続ければ、生涯にわたって、成長・向上できるわけですが、それを自ら放棄していれば、まったく成長のないまま、一生「幼稚園・小学校レベル」で終わります。

◆「集団へ従属」することで「個」としての弱さから逃れる意識

 「集団への従属」とは、自分への劣等感、無力感から、自分自身のやりたいことに挑戦しようとはせず、外側の秩序、集団に自ら服従しようして、成長を放棄しようとする行為と言えます。

 自ら「服従(集団への帰属)を求める」のは、孤立や孤独といった「自由の重荷」から逃れ、自分よりも「圧倒的に強いと感じる人物」や「力」に服従することで、「自分をなくそう」とする意識から生まれてきます。

 「服従」することで、自分を殺し、自分から逃れ、自己を取り除くことで、安定感を得ようと願うわけです。

 (潜在的も含め)「服従を求める者」は、本当は「依存」であるのに、愛や忠誠と誤認し、「劣等感」を自分への適切な(謙虚な)評価とし、「悩み」は環境のせいだと、自分自身を錯誤させていきます。

◆「悩み」が生じない精神属性

 「服従、従属(隷属)、依存、不安」から解放された、真に「自由」な人には、そもそも「悩み」など存在しません。

 そこにあるのは「挑戦」と「何かを成し遂げようとする過程」で生じる「試行錯誤」であって、「悩み」が発生する「土壌」をそもそも持ちあわせていません。

 集団への「帰属」意識がないので、集団や組織を頼りにしていないため、環境(社会)のせいでも、学校(会社)のせいでも、国(民族)のせいでも、集団内の人間関係のせいでもないと考え、「悩む」ための「素地」自体が、1つもないのです。

◆自分への不安

 自分自身が嫌いな人や、自分自身を卑下している人は、常に自分に対する不安を抱いています。

 「利己主義」とは、自己愛の欠如(自分を愛することができないこと)に根ざしたものであり、利己的な人間は、結局「他人も、自分も、どちらも愛していない」ということになります。

 「利己的な人間」とは、自分を愛しているのではなく、他人を信じられずに不安を抱き、自分よりも多くのものを持っている人間に羨望を持ち、実は自己嫌悪を膨らませていくのです。

 「野心」とは、1人で(何かに依存せずに)生きていくという「強さ」とは逆の、自分の「弱さ」から現れる心です。

 自分自身に「真の強さ」が欠けているにも関わらず、(集団内だけにおける)2義的な強さを獲得しようとする絶望的な試みでもあります。

 「他人を支配しようとする」願望は、「服従者を欲する心」「服従者を頼りにした、自分の孤独に耐えられない心」の弱さ、「自分自身の弱点から逃れ出ること」から現れるものです。

 真に「自由」な人、あるべき「能力」を持つ者は、自己の潜在的能力を実現できる程度に応じて生きていけるため、他人を支配する必要もないし、「(集団内の)権力に対するあくなき追求」といったことをする必要もないのです。

 「鬱」とは、自己の無力感、自己否定、自己卑下、自己の罪悪性に基づく、「自分自身に向けられた敵意」から生まれてくるものです。

◆愛と自由

 「愛」とは、単なる「好み」ではなく、対象への「幸福・成長・自由」を目指す、積極的な追求から生まてくるものです。

 「自分を愛する」ことができない人は、他人を愛することもできませんし、「他人を愛することができる」ということは、自分を愛していることを示しています。

 「愛」は、自分を含むすべての人間や事物に向けられるものなので、「愛の対象となるのが、ただ1人の人間」などということはあり得ません。

 「ただ1人の人間に向けられる愛」と錯誤している感情は、愛ではなく「執着」です。

 「1人でいることができない不安」から相手を求める愛は、相手に対する「依存」なので、相手に依存したいのに、できないと不満を感じ、相手にその不満をぶつけようとします。

 あるいは、その相手との「依存状態、依存環境」が安定してくると、もっと大きな「自分を依存させてくれる対象」、相手を探し始めます。

 その「より大きな依存を求める感情」が、いわゆる「浮気」という感情を生み出します。

 真に「自由」な人は、依存するための相手を必要としていないので、相手を束縛しないし、自由だし、そういう不満も感じないので、不満をぶつけることもないし、より大きな依存相手を探そうともしないし、常に「開放された自由な精神性」で、安定していられます。

 「集団から孤立でき、何にも依存しないで(1人で)いられる能力」こそ、真に「愛する」能力の条件であり、自分自身を信じている者だけが、他人に対しても、真に誠実になれるということになります。

『愛は、人間の実存という問題への、唯一の健全で満足のいく答えである。』
by エーリッヒ・フロム


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「幸せとは何か」を考えてみる [Essey]

 先日、たまたま、こういう記事を見かけました。

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『人が幸せを感じる4つのこと』
1 : 人に愛されること
2 : 人に褒められること
3 : 人の役にたつこと
4 : 人から必要にされること

『人を幸せにする方法』
1 : 人を愛すること
2 : 人を褒めること
3 : 人に感謝すること
4 : 人を必要とすること

自分が幸せに成りたかったら、人を幸せにしよう。
人を幸せにしようとすれば、自分が幸せになれます。
------------------------------------------

 これを読んだ瞬間に「違和感」を感じました。それは違うだろうと。

 もちろん、上の記述のうち、「愛し、愛され」の「幸せ」はわかるに決まっていますが、「役に立つ、必要とされる」は、(少なくとも、自分にとっては)「たいして幸せなことではない」からです。

 (誰かの)「役に立つ」というのは、基本的に「組織論」です。
 (誰かに)「必要とされる」というのも「コミュニティ論」です。

 もちろん、組織も、コミュニティも大事です。でもそれが「自分にとっての幸せ」をくれるわけではありません。

 「幸せ」というのは、組織でもコミュニティでもなく、それ以上に「パーソナルなもの」だからです。

 「組織」が「個人」を上回って、「幸せを感じさせてくれる」ことなどありません。

 これまで社会における「製造業の発展」には、「毎日、地味な作業をコツコツと続ける人」が、大勢必要でした。

 なので、体制側から「個を犠牲にしてでも組織のために」こそ「美徳」という意識を、ずっと植え込まれてきました。

 その末路が「お国のために」なんていうスローガン、「個人の死よりも国が優先する」という考えがまかり通るような社会状況になってしまったわけです。

 でも違います、そんなことは、ちっとも「幸せ」じゃありません。

 「国が戦争に勝った」で、個人が「幸せ」を感じられるでしょうか?

 親兄弟、友人・知人が大勢「戦死」しても、「そんなことはどうでもいい、国が勝ったのだから、なんて幸せなことだろう」にはなり得ません。

 「役に立つ」とか「必要とされる」とかいうのは、もっともっと2次的、3次的な部分です。

 個人にとっての「幸せ」というのは、もっと「個人的なもの」なはずです。

 人と比べるものではないし、「人から見たらそうは見えないかもしれない」けど、自分自身は「幸せを感じている」というものなわけです。

 ではいったい、何が、個人にとっての「幸せ」なのでしょうか?

 自分がこれまで、最も納得した「幸せ論」は「マズローの欲求段階説」です。

 マズロー博士の言う「人間は、自己実現に向かって、絶えず成長する生き物である」に、まず同意します。

 人は、生まれながらに「成長欲求」を持ちます。

 なぜなら「成長」しないと、(あらゆる動物が)死んでしまうからです。

 もしも、生まれたまま、子どものまま、成長しなかったら、あらゆる「動物」が絶滅してしまいます。

 自力での「食料の確保」もできないし、非力なままで「敵」にも襲われ放題、反撃もままならず、無惨にやられてしまいます。

 よって「成長しなければならない」というのは「生を受けたもの」すべてが持つ、「生きるために必要な」最も根源的な欲求です。

 もはや「遺伝子レベル」で、生まれ、育ち、成長し、子孫を残し、次世代に生をつなぐ、という何よりも優先される欲求なわけです。

 そして、人間の場合には、マズロー博士の言う5段階の「基本的欲求」があります。

◆人間の基本的欲求を低次から高次の順に並べた5段階
1.生理的欲求(Physiological needs)食欲。排泄。性欲。睡眠。
2.安全の欲求(Safety needs)安全な暮らし。安全な環境。
3.所属と愛の欲求(Social needs / Love and belonging)愛し愛される。家族。
4.承認(尊重)の欲求(Esteem)職業。社会で認められる。
5.自己実現の欲求(Self-actualization)自分らしい人生。

 これこそ、読んだ瞬間に「これだ」と納得できる人格形成理論でした。

 「動物」としての最も根源的な欲求から、成長過程、人格形成過程において、「より高次な次元にステップアップしていく」ことなんだと。

 もちろん、この欲求レベルの中に、「所属や愛や承認欲求」もあるわけですが、それらは、3段階・4段階のレベルに過ぎません。

 本来の「幸せ」を感じられるのは、最も高次な段階5のレベル「自己実現」なわけです。

 「個人」としての、創造性、価値感、美意識、至高経験などを通して、従来の時点から(確実に階段を登り続け)自分自身が「より高次のレベルに達する」ことへの喜び、「幸せ感」です。

 愛や恋の前に、組織への所属の前に、まず「生きなければならない」という、最も根源的な、遺伝子レベルの「使命感・欲求」に根ざした「成長欲求」です。

 本人が死んでしまったら「愛も、組織も、役に立つも、へったくれもない」という、最も根源的な「成長欲求」の最上位が「自己実現欲求」なわけです。

 これはもう「遺伝子レベル」で、全身から「幸福感」を感じる状態、と言っても過言ではないでしょう。

 人が本来持つ「欠乏欲求と存在欲求」を同時に満たし、上空から俯瞰するような認知感、あらゆる事象、現象を受け入れられる「ノーリミット感」を得られるといった「トランスパーソナル心理学」の源流になる理論ですね。

 その認知感、ノーリミット感があるからこそ、より深く人を愛せて、より組織にも貢献できるわけです。

 「役に立つ」とか「必要とされる」ことが「幸せ」ではないのです。自分自身の「心の問題」なのです。

 そして、マズロー博士は、さらにその上に「自我の壁をも超える(自我の対象範囲を自分を超えて広げられる)」レベルにまで達する「自己超越」のレベル6があるとしているわけですが、こればっかりは、自分にはまだまだ未達なので、良くわかりません(笑)

 ということで「幸せになりたいなら、自らを成長させよ」ということになりますね。

 人は「成長に応じて、幸せを感じられる」ということですね。

 例えば、生まれたばかりの赤ちゃんに「幸せかい?」と聞いても、わかるわけありません。

 そもそも「幸せ」という概念すら、持ち合わせていないのですから。

 同じく、簡単に「犯罪を犯す」ような人は「成長できていない」わけですから、「幸せ」を実感できるはずがないですね。(だから犯罪に走るのでしょうが)

 自分は「幸せになりたい」ので、これからも、もっともっと「成長し続けたい」です。

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10年前と10年後の未来<9> [Essey]

 コンビニなんかにも出入口にゲートを作って、店に入って、商品を手に取り、そのままお店を出ちゃう。今やると万引きだけど。
 全商品にICタグがついてて、ゲート通る時に、自動的に引き落とされると。
 そうなると、店員さんもいらなくなって、自動販売機のコンビニ版って感じかな。

 店側にしても、万引きも、レジ強盗の心配もないし、人件費も削減ってことで、ゲートぐらいすぐ作るでしょう。
 電子決裁型時計してないと、ゲートが閉まっちゃったりして。そういう時は、ゲートに表示された分の現金を、ゲートに投入すれば開くとかね。

 商品の仕入れ、陳列は、トラックの配送にあわせて定期的に、店員さんが店にやってくるとか。
 このゲート自動支払システムは、コンビニだけじゃなくて、物販店全部に当てはまっちゃいそう。
 そこら中のお店に行っては、ほしい商品、勝手に持って出ちゃうと。衝動買い増えそう。ってか、ゲート持ち出し破産ってのが出てきたりして。

 でも、これからの10年も、メリット・デメリットは、背中合わせなんでしょうね。
 それを恐れいては、次の一歩も進めないってことで。


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10年前と10年後の未来<8> [Essey]

 さて、もう一つの革命児、携帯電話のゆくえはと言うと、まずは腕時計にでもなってるかな。すでに製品化され、販売も始まってるけど。
 まだちょっと大きくて、やぼったい。でも、また初期の携帯電話のときと同じように、あっという間に小型軽量化されるのでしょう。
 普通の腕時計サイズで、そこそこの値段になったら、一気に普及するんじゃないかな。

 電話がかかってくると腕時計が振動して、通話ボタンを押して、あごに当てれば、骨伝道で相手の声が聞こえてくるなんてね。
 それだと、女性は抵抗あるかもなんで、時計をあごに当てるのはちょっとという人は、腕時計にイヤホンをつないで聞くとか。

 で、あごに当てた時計に話しかければ、超小型マイクが拾って、相手に伝わるっていう感じだと、一昔前のアニメウルトラ警備隊の世界が現実になっちゃうって感じ。
 電話かける時は、時計のちっこいボタンを押さなくても、ペーパーディスプレイを時計につないで、ディスプレイ上に表示される番号をタッチすればいいとかね。

 そうなると、お出かけする時は、時計と丸めたディスプレイだけあればいいと。
 もちろんサイフも不要で、腕時計に電子マネーをチャージして、改札通るときにかざすだけと。
 劇場に入るときも、高速道路のETCみたいに、電子決裁が可能な時計してれば通れるなんていうのがいいなァ。


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10年前と10年後の未来<7> [Essey]

 もっと近未来チックなのを想像してみると、端末と言っても、透明のビニールっぽい、くるっと丸められるディスプレイになってるかもね。
 携帯電話にも、すでに使われてる有機EL(electroluminescence-エレクトロルミネッセンス:電気による発光(現象))ってやつですね。
 最近、ぐにゃっと折り曲げられるバッテリーっていうのも、開発されたし。

 有機ELは、自発光型の素子だからバックライト不要で、発光セルが固体からできているから、フィルム状に丸められて、高輝度の視野角無制限(なんと裏面もあわせた両面表示も可能!)で。
 サイズはA4判か、日本人ならではのB5判って感じかな。こいつをクルクルっと丸めて、ポケットに突っ込んで、おでかけすれば、いつでも、どこででも、なんでもできちゃうよと。

 電車の中ででも、待合せ場所でも、おもむろに「ペーパーディスプレイ」を取り出し、電源ONしてGoogleのサイトにアクセスと。う~ん、便利。
 ってことは、新聞も本も雑誌もいらなくなるなァ。インターネット上の各社のサイトにアクセスして読めばいいわけで。A4なら読みやすいし。
 これこそ本当の、完全なペーパーレスで、地球環境にもやさしいよと。
 それでもって、太陽電池で動いちゃったりしたら最高ですね。


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10年前と10年後の未来<6> [Essey]

 そして、次の10年には、どういうことが起きていくのか。
 たぶん、誰にも想像つかないことが起きているはずだけど、今、盛んにまかれている種を頼りに、まず数年後には、確実に開花してそうなものから想像してみましょうか。

 今から5年後の世界は、PCという形態がなくなって、マイクロソフトインテルという巨人が、すっかり小さくなって、普通のサイズになっていることでしょう。

 今、そういう種をせっせとまいているのが、検索サイトを極めたGoogle(グーグル)ですね。
 これからは、ASP(アプリケーション・サービス・プロバイダー)に、変貌しようと、次々と手を打ってる最中で。
 マイクロソフトの役員まで引き抜いてアプリケーション開発部隊を立ち上げ、無料のディスク貸し、メールサービス、AOLとの提携と。
 GoogleがASPになるってことは、インターネットにさえつながれば(PCである必要はなく)、あらゆるソフトをGoogleのサーバ内で使用できちゃうようになるってことで。(しかもたぶん無料で。)

 ワープロで文書作るのも、表計算ソフトでリスト作ったり、集計するのも、画像を作成したり、加工・編集するのも、全部、Googleのサイトに行けばできちゃうよと。
 いつでも、どこでも、移動中でも、どんな端末からでも、とにかくGoogleのサイトに行けば、必要なことはなんでもできちゃうようになるのでしょう。

 アプリケーションの動作とデータの処理は、すべてサーバ側でやってしまうから、端末にたいしたスペックは必要なく、インテルの出番もサーバだけに特化するようになると。
 軽ければいい端末のOSは、TRONがシェアを伸ばしてくるかも。純国産で、リーズナブルだし。マイクロソフトのOSは重いし、扱いづらいし、出番なし。
 今までのユーザーサポートと企業向けぐらいで、細々って感じかな。

 10年後のGoogleは、全世界から圧倒的なアクセス数を獲得し、そのシェアは、かつてのマイクロソフトのように80%を超えるほどにもなり、広告費用だけでも、とてつもない利益を上げているのでしょう。(少なくとも本人たちはその気でいるように、私には感じられます。)


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10年前と10年後の未来<5> [Essey]

 10年前にはなくて、社会全体まで大きく変えてしまったもう1つの革命は、携帯電話でしょうね。
 登場したばかりの頃なんて、でかいし、重いし、そんなに電話することなんて普段ないし、公衆電話があちことにあったし、電話するだけのために、わざわざ持ち歩く人の気が知れないと思ってた。
 ところが、気がつけば、あっという間に小型軽量化されちゃって、ポケットに入るようになっちゃった。

 こうなると話は全然違うわけで、ポケットに入るんなら、どこへでも持ち歩けるし、持ち歩けるとなると、電話してから出かけるんじゃなくて、とりあえず出かけて、外を移動しながら連絡するようになっちゃって。
 待合せ場所が違ってたとか、約束に遅れるとか、すぐに連絡がつくってことが、こんなに便利なこととは思わなかった。
 そこへ、ダメ押しのように、Mailとiモードが登場して。
 こうなるともう、単なる電話機ではなくなって、携帯型情報通信端末って感じに大化けしちゃった。

 iアプリなんて名前でJavaが動くって、そんなのもう電話じゃないって。
 ゲームはできるし、赤外線通信・モデムのデータ通信機能はあるし、デジカメ標準内蔵に、動画撮影...って。
 どこまでも新しい機能を取り込むんだって感じで、お財布に、クレジットカードに、リモコンに、家の鍵にまでなろうとするなんて、10年前に誰が想像したでしょう。

 こうなると、先に「携帯情報端末」と書いておいてから、かっこで(電話機能付き)って感じ。いろいろあるついでに、電話もできるよと。
 こんなことが、10年という年月の間に起きるものなんですね。


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10年前と10年後の未来<4> [Essey]

 インターネットは、それまでのパソコン通信の世界に、次の3つのことをプラスしたかな。

 1)好きなようにリンクが作れて、どこへでも、どういうふうにでも飛んで行ける。
 2)プロバイダも国境も越えて、どこの会員だろうと、誰とでもやり取りできる。
 3)自分のサイト(ブログ含む)を持つことで、個人が情報発信者(メディア)になれちゃう。

 これは、本当に画期的なことで、それまで受信するだけだったマスメディアの壁を、いとも簡単に打ち破ちゃった。
 一個人が、個人で負担できる範囲の費用で、マスメディアに負けない情報発信者になれちゃう。
 その魔力が、ブログというスタイルも生み出したのでしょう。個人のブログのアクセス数が万単位になるなんて、10年前に誰が想像したでしょう。しかも、このブログみたいに無料になるなんてね。

 上の3つのプラスポイントは、インターネットというシステムそのものが生み出したわけだけど、もう1つ、4つ目として、企業があとから付加したサービスが、さらにダメ押ししたということになるのかな。
 そういう意味では、ブログもその1つなんだろうけど。

 4)検索サイト、検索サービスなんていうものの登場によって、自分がわからないこと、調べたいこと、知りたいことが、ほとんどなんでもインターネットで見つけられるようになっちゃった。

 これがまた驚愕的な出来事で、例えば何か製品に関して検索すれば、製造者本人が情報発信してるんだから、これほど確かなことはないと。
 学術的なことや医学的なことでも、実名で、教授や医者本人が情報提供してくれてるし、芸術的なことや芸能も、アーティスト本人が語ってるものが読めちゃう。

 大百科事典なんか足元にも及ばない、はるかに超越した、しかも信憑性の高い情報量がインターネットにあることが、情報の入手方法まで変えちゃった。
 情報の精度を問題視する人がいるけど、それはよっぽど探し方が下手なのであって、ちゃんと検索すれば、探す内容によっては、制作者本人が情報源だったり、新聞や雑誌程度には信用できる情報がいくらでも集められちゃう。
 人類の文化歴史上、ルネッサンス以来の大革命でしょう。それが10年の間に、圧倒的な成長スピードで、でき上がっちゃった。


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