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「正義とは何か」を考えてみる [Essey]


 かなり以前に、ハーバード大学の講義「マイケル・サンデルの白熱教室」を観た時から違和感を感じ(笑)、見れば見るほど嫌いになり(笑)、「全然ダメだな」「全然違うな」と思い続けて有余年、ようやく、考えがまとまってきました(笑)

 世界的な大ベストセラー「サピエンス全史」の著者ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、「絶対的な正しさ、普遍的な正義など存在しない」としています。同感です。

 ある「人」にとっての「正義」は、各人が自分にとって都合の良いことを「正義として主張するに過ぎない」ということですね。

 場合によっては「正義とは強者の利益のために作られたもの」でもあるでしょう。

 人類の歴史上「正義」という概念は、結局「法」として運用されてきました。

 個々人で「正義」が異なるので、「法で定めたことに、みんなが従うことにする」というルールは、とても「自然発生的に得られた現実論」という気がします。

 たとえそれが、ある人にとっては「悪法」であろうとも、(税金のように)不満があろうとも「法で定めたことには従おう」と。

 人類の歴史は、これを悪用してきた歴史でもあるのかもしれませんね。
 ナポレオンでも、ヒトラーでも、日本における政治の歴史でも。

 「法とは何か」言えば、人々の「決めごと」であって、人々が集まって「こうしよう、そういうことにしよう」と、多数決で決議し、決めたことに過ぎません。

 それは、その時点の「ルール」に過ぎないので、当然、どんどん変化しますし、追加・削除もされますし、やっぱり「全部取りやめ」になることもありますと。

 その「ルール」=「法」を破った人に対して、罰則を設けるかどうかも、その時の人々の判断で変化しますと。

 つまり、その時代、その時間に決めた人たち次第で、ルールは変わるし、法は変わるし、正義は変わるということですね。

 ある時代では「男尊女卑」が正式な「法」として定められ、正しい行動、正義であったし、ある時代においては「男女平等」が「法」として定められ、正義になると。

 ある時代では「職業の固定化」が正義であり、ある時代においては「職業選択の自由」が正義になると。

 ある時代では「黒人奴隷制」が正式な制度として、法によって運用され、ある時代においては「人種差別」が否定されると。

 「正義」なんて、所詮、その程度のものだと。

 本当に「正義」に対する解釈は、これで良いのかと思いつつ、哲学書や思想・思索を探るわけですが、これといったものがなかなかありません。

 人類史上に残る「知の巨人」たちでさえ、なぜかこと「正義」に関しては、ほかの思考の深さ、見事さに比べて、かなり見劣りした内容になっています。

 例えば、プラトンほどの人が「正義とは、国家の備えるべき至高の徳」としています。
 これでは「国家」レベルの話でしかありません。

 プラトンの弟子であるアリストテレスは「正義には、配分的正義と矯正的正義の2つがある」としています。

 「配分的正義」というのは、「各人の有する価値に応じた比例的分配が正義である」というもので、結局は「配分」、各人の取り分の話に過ぎません。
 せいぜい「取り分をごまかすなよ」というのが「正義」というレベルの低さで、まいります(笑)

 「矯正的正義」というのは、「法の前で平等とされる市民の間に現実に存在する不均等を矯正する調整の正義」という、一見難解そうな書き方ですが、結局は「不正や不当な利益は、調整されなければならない」というだけです。
 「正しく調整するのが正義だ」と。

 そういう、現実社会の、個々の、限られた場面での、「実社会における正義」ではなくて、もっともっと深い思考の、宇宙観にも触れるような「普遍的な正義」に関する「奥深い洞察」はないものでしょうか。

 例えば、仮に「普遍的な正義」があったとして、それを解釈・判断するのは「その時に存在する人に過ぎない」という指摘があります。

 結局は、その時に解釈・判断する人々が考える「正義」次第で、解釈・判断も変わってしまうのだから、それはもはや「普遍的な正義」ではないと。

 例えば、「権利の存在」は、普遍的に定義できても、その「権利を認めるか、認めないか」という「法」的な判断は、その時代、人々の集団の違いによって、変わってしまうと。

 「正しい」かどうかを「人が判断」している時点で、「普遍的ではない」という指摘ですね。

 ということは、仮に「人知を超えた普遍的な正義」があったとしても、その時代、人々の集団で、解釈・認識が異なってしまうのだから、そもそも「普遍的な正義」があろうとなかろうと、結局「人類にとっては何の意味もない」ということになってしまいます。

 ということで、「白熱教室」で感じた「違和感」につき、長年にわたって思考継続してきた結果、導き出された結論は、次のものについに決着した次第です(笑)

「正義とは、その時々に居合わせた人々が、感覚的に多数決で決めるルールに過ぎない」
by Virai
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「漁師とコンサルタント」という有名な話について考えてみる [Essey]

 この「漁師とコンサルタント」という話は、アメリカのビジネススクールでMBA(Master of Business Administration:経営学修士)を取得したコンサルタントが「いかに役に立たないか」を皮肉ったジョークらしいです。
 だいたいこんな話です。
−−−−−−−−−−−−−−
 メキシコの海岸沿いの小さな村に、MBAの資格を持つアメリカのコンサルタントが訪れた。
 ある漁師の船を覗くと、活きのいい魚が獲れている。

 コンサルタントは聞いた。
「いい魚ですね。漁にはどのくらいの時間かかるのですか?」

漁師「そうだな、数時間ってとこだな。」

「まだ日は高いのに、こんなに早く帰ってどうするのですか?」

漁師「妻とのんびりするよ。一緒にシエスタを楽しみ、午後にはギターを弾きながら子どもと戯れ、夕暮れにはワインを傾けながら妻と会話を楽しみ、それで、寝ちまうよ。」

 それを聞いてコンサルタントはさらに質問した。
「なぜもう少し頑張って漁をしないのですか?」

 漁師は聞き返した。
「どうして?」と。

コンサルタント「だって、もっと漁をすれば、もっと魚が釣れる。それを売れば、もっと多くの金が手に入り、大きな船が買える。そしたら人を雇って、もっと大きな利益が出る。」

「それで?」と漁師は聞く。

コンサルタントは答える。
「次は都市のレストランに直接納入しましょう。そうしたら、さらに大きな利益がうまれる。
 そうなれば、この小さな村から出て、メキシコシティに行く。
 その後はニューヨークに行って、企業組織を運営すればいい。」

「そのあとはどうするんだ?」漁師はさらに聞いた。

 コンサルタントは満面の笑みでこう答えた。
「そこからが最高だ。企業をIPO(Initial Public Offering:新規株式上場)させて巨万の富を手に入れるんだ。」
「巨万の富か。それで、そのあとはどうするんだい?」と漁師は最後に質問した。

「そしたら悠々とリタイヤさ。小さな海辺の町に引っ越し、家族とのんびりシエスタを楽しみ、午後にはギターを弾きながら子どもと戯れ、夕暮れにはワインを傾けながら妻と会話を楽しむ。のんびりした生活を送れるのさ。」

 漁師はため息をつき、やれやれ、という顔で一言を付け加えた。
「・・・・そんな生活なら、もう手に入れているじゃないか。」
−−−−−−−−−−−−−−

 まあこれはこれでいいのですが、困ったことに、自分にとって、この「海辺の町で、のんびりと過ごす生活」が「まったく羨ましくない」ということに気づかされてしまったわけです(笑)

 自分でも「そうだったのか」とびっくりしましたが(笑)、こういうところで、まあ1週間ぐらいなら、のんびりするのは良いかもしれません。

 しかし、もしそれが2週間も続くと「大事な、自分の短い人生を、こんなところで、ただ無為に、無駄に、過ごしていて良いのか」という感情が、湧き起こってくることは間違いありません(笑)

 別に自分は、ワーカーホリックなわけではありません。
 単純に、「人生を楽しむ」「ひたすら遊ぶ」という観点においても、例えば、「世界最高峰のサッカー」を観ることが、自分の最高の至福の時間でもあるわけです。

 もし、十分なお金と時間があるなら、ワールドカップ、チャンピオンズリーグ、欧州選手権、南米選手権、そのほか、すべての世界大会を、現地に行って、直接観たいわけです。

 もちろん、サッカー日本代表の試合も観たいですし、応援したいですよね。
 海辺の田舎町で「食って、寝て」る場合じゃありません(笑)

 つまり自分の場合、こんな田舎の「海辺の町」にいたのでは、人生を「まったく楽しめない」「何もおもしろくない」「まったく羨ましくない」わけです(笑)

 サッカー以外でも、例えばローリング・ストーンズ、U2、ブルーノ・マースなど、世界ツアーレベルの音楽・構成・演出で、圧倒されるようなコンサートに行って、全身で打ち震えたいわけです。

 頭のてっぺんから足の先まで、圧倒的なエネルギーを浴びながら、その音楽性の高さに、鳥肌を立てながら、体ごと感動したいわけです。
 それこそが「自分にとっての幸せな時間」なわけです。

 「食べる」にしても、例えば「オテルド・ミクニ」のような「芸術的な域」にまで到達した、最高の料理を味わって感動したいわけです。

 もしお金と時間を問わないのなら、フランスのジョエル・ロブションの世界最高峰のコース料理を心の底から堪能したいわけです。

 たった1度の人生、田舎の「海辺の町」で、自分で漁をしてきた魚中心の同じような料理を(しかたなく毎日)食べてる場合じゃありません(笑)

 あるいは、大好きな映画にしても、例えばリドリー・スコット監督の最新作が、高画質/高音響の最新型シネコンで観られないなんて、そんなつまらな過ぎる生活、自分には無理なわけです(笑)

 自分にとっては、「小さな海辺の町に引っ越す」時点で、苦痛でしかないわけです(笑)
 何で、そんなつまらない毎日を過ごなくてはならないんだと。
 下手すれば、囚人じゃないかと(笑)

 という、この話の本来の趣旨とは、まったく違う受け取り方になってしまったのが、「自分でも意外で、おかしかった」という話でした、ちゃんちゃん(笑)


「子どもから大人になる」について考えてみる [Essey]

 よく「大人にはなりたくない」とか「いつまで経っても、子どもだな」といった表現を見聞きしますが、そのたびに感じていた「違和感」について考えてみました。(我ながら物好き(笑))

 このような表現において、「大人 or 子ども」を決めるのは、「年齢」ではなく、精神的な観点、「精神性」であることがわかります。

 つまり「精神の発達具合」ということですね。
 大人と子どもを分けるのは。

 子どもの精神性は、すべて「真似」から始まります。
 親を真似し、周りの大人を真似し、兄妹の真似をし、同年代の真似をしながら、言葉を覚え、話し方を覚え、動作を覚え、対応のしかたを覚えていきます。

 あらゆる人間が、成長過程で「真似」するのは、根源的な生存本能であり、生き残り戦略であり、基本的な要素を形作るものですね。

 だからこそ人間の成長過程において、親や周囲の人たちが与える影響は大きいと。

 しかし、ある程度「知能」が発達してくると、「親や周囲の人たちの真似では、全然足りない」ということに気づきますね。

 そこで、もっと多くの、広い視野・視点からの、自分がそれまで知らなかった「より良いもの」を真似しようと求め、これまでの人類の歴史や偉人たちを学び始めると。

 あるいは、どこかへ旅に出てみたり、一人暮らしを始めてみたり、なんとかして独り立ちしようと試みると。

 ここで、大きな分岐点が訪れます。
 「このままで、もういいや」と思うか「まだまだ、もっと大きく成長したい」思うかですね。
 ここが「大人と子ども」を分ける、分岐点なのだなと。

 その地点で、成長を放棄した人は、どれだけ年齢が経過しても、ずっと「子ども」のままですね。
 実際、自分の周りにも「いい年した子ども」をたくさん見かけます(笑)

 逆に、自分に対して、さらなる成長を求め続けるならば、その長さ、深さに応じて、より高レベルの「大人へと成長していく」ということですね。

 これも「年齢」には関係ないので、小学校、中学校の年齢で、すでに「大人」のレベルに達している人もいますね。

 「精神性の発達具合」を見極めるのは、次の項目がわかりやすいですね。

1.物事をすぐには信じない
 世の中のさまざまな情報に対して、鵜呑みに信じてしまう人が結構多いわけですが、「鵜呑みにする」ところが「子ども」ということですね(笑)

 簡単に、ありふれた詐欺に引っかかるような人たちですね。
 年だけ、取っていても。

 「大人」のレベルに「知能」が発達した人なら、必ず一歩立ち止まって「それは本当か? 真実なのか?」と疑問に思い、すぐには信じない=クリティカルシンキングによって、騙されることなく、冷静に、真実を探求していくことができますね。

 ひとりの「大人」として生きていく上で、とても重要な思考方法ですね。

2.「探求心=知的好奇心」の高さ
 知力が「大人」のレベルの人は、探求心=知的好奇心が高く、自分が知りたいことに対して、貪欲に調べ尽くし、すぐにわからなくても、ずっと継続的に考え続ける精神的な強さも持っていますね。

3.誰に対しても、わかりやすく説明できる
 「大人」であれば、説明がうまいと言われないといけないですね。
 それは、聞く側の立場に立って、相手が理解しやすいように説明しようと努力するからできることですね。
 これが「子ども」にはできません(笑)

 そのためには、自分自身が(あやふやな点など1点もない)完全に理解した状態=「相手がどのような質問をしてきても答えられる状態」であることが必要です。

4.軸がしっかりしている
 知力の高い人が、人の話に騙されないのは、自分の中にしっかりとした軸があり、独自の意見を持っているからですね。

 「なんとなく」とか、「どうなんだろう」といった曖昧な状態ではなく、「自分の考えはこうだ」「それは今の自分にはわからない、よって判断できない」と、明確に「メタ認知」できているからですね。

 「子ども」は「メタ認知ができていない」ので、今の自分が「人からどう見えているか」を認識できないため、車両やお店の中で(人の迷惑を考えず)騒げます(笑)
 もちろん、年齢に関係ないので、高校生でも、大学生でも、社会人でも(笑)

5.豊富な知識量
 順調に成長できている人は、自分に「インプットしたものしか、アウトプットできない」ことを知っているため、広範囲に、専門的で深さのある知識量の拡充に努め続けます。

 それは、言葉自体の引き出しも多く持ち、わかりやすい言葉で説明できる準備をしていることにもなりますね。

6.目的意識が強い
 知力が高ければ、無計画であることを嫌い、どんなことでも(仕事・遊び・趣味...etc.)、何かする時には必ず目的を決めて進めます。

 だからこそ、途中、挫折しそうになったとしても、目的を達成しようと継続できる精神的強さにつながりますね。

 例えば、ギターが弾きたいと始め、意外と難しくて、途中、挫折しそうになっても、目的意識が強いから、「どうすれば乗り越えられるのか」を考え、課題解決方法を見出し、最後までやりきれるわけですね。

7.効率がいい
 知力が高ければ、効率の悪さを嫌うので、どうすれば「効率よく進められるか」について、頭をフル回転させます。

 常に「効率性」を考えているからこそ、仕事でも趣味でも「こうすればもっと速い」「この方法の方が最大効果が得られる」といったアイディアが次々に思い浮かんできますね。

8.解決能力の高さ
 知力の高い人は、自分が今まで培ってきた知識・能力を活かせば、乗り越えられない壁はないと考えるので、物事の解決能力が高くなります。

 知力の低い、まだ「子ども」な人は、何か新たなチャレンジをする際に、まず「失敗したらどうしよう?」と頭に浮かぶのだそうです。

 そのため、実際にやる前から「リスク」を恐れ、回避したがり、結局は、新しいことへのチャレンジから逃げ、ずっと「新しいことを何も獲得できないままでいる」ようです。

9.無駄なことをしない
 知力の高い人は、自分を客観視(メタ認知)できているので、無駄なことはしません。

 例えば、自分のキャパオーバーな量の仕事を押し付けられたとしても、アタフタすることなく、最優先でするべきこと、後回しにできることを瞬時に判断し、達成可能なものから、日数調整の交渉を行っていきますね。

 キャパオーバーとわかっていれば、ジタバタしても無駄なので(笑)、それを前提にした思考方法に、切り替えるだけですね。

 あるいは、もしその相手が日程交渉が不能な人の場合であれば、「相手にするだけ時間の無駄」ときっぱりと断ち切る精神的な強さ(軸)があるので、無駄なトラブルを避け、より上位の「より権限の高い人」に報告、相談し、常識的な解決方法を図りますね。

10.あいまいにしない
 知力の高い人は、新たに触れた情報に対してはいつでも、あいまいにすることなく、突き詰めて調べ、得た情報が事実かどうか検証してから咀嚼し、自分の中に取り込んでいきます。

 インプット時にそうするからこそ、「1点の曇りのない状態」で「アウトプットもできる」ということですね。

 同じ生きるなら、年だけとって、ずっと「子どものまま」なのは、あまりにも情けないので(笑)、とっとと脱して、少しでも早く「大人な精神性」に到達し、さらなる成長、自己実現を図っていきたいものですね。

カント『純粋理性批判』まとめ [Essey]

 カントの『純粋理性批判』のまとめです。
 21世紀の現代においても、相変わらず深い命題ですね。
 繰り返し、自分の中に、改めてインプットし直したくなるテーマです。
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 『純粋理性批判』は、17世紀ドイツの哲学者のイマヌエル・カントによる著作で、1781年に発表。

 カントは、本書で私たちの認識可能な領域の限界線をハッキリさせることで、普遍的な認識、つまり共通了解がどこまで可能であるかを明らかにしようとした。
 その意味で批判とは、徹底的な「吟味」のことを指している。

 先験的理念は、超越的であって一切の経験の限界を超出する。
 だから、これらの理念に完全に合致するような対象は、経験においては決して現われ得ないのである。

 世界に始まりはあるか?また終わりはあるか?は、一見、どちらが正しい命題であるかを判断するのは難しいが、カントは、

1.正命題 世界は時間的な始まりをもち、また空間的にも限界を有する。

2.反命題 世界は時間的な始まりを持たないし、また空間的にも限界を持たない、即ち世界は時間的にも空間的にも無限である。

は、ともに等しい妥当性を持つとする。

 つまりカントは、世界に始まりと終わりがあるという命題と、始まりも終わりもないという命題は互角に成立してしまうため、世界に始まりと終わりのどちらがあるのかを判断することはできない、とする。

 「世界には始まりがあり、限界がある」という命題と、「世界には始まりがなく、限界がない」という命題は、どちらも等しく成立する。
 したがって世界の始まりと限界を決定することは、原理的に不可能である。

 「世界の全体はこうなっている」とドンと示されると、いいね!と賛同する人もいれば、そんなの分かりっこない!とシニカルな態度を取る人もいる。

 正命題と反命題は、たとえ同じ妥当性を持っていても、どちらを選ぶかについては心理的な要因が大きく影響している。


出典「カント『純粋理性批判』を解読する」
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-kant-kritik-reinen-vernunft/
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「サピエンス全史」著者インタビュー記事の感想 [Essey]

世界的ベストセラー「サピエンス全史」の筆者、ユヴァル・ノア・ハラリ博士(イスラエル人歴史学者)のインタビュー記事2つの読後感想

1.「人類の繁栄とは“虚構”の上にあるのです」 『サピエンス全史』著者ユヴァル・ノア・ハラリ大型インタビュー
https://courrier.jp/news/archives/63841/

2.“貨幣や宗教は虚構”「サピエンス全史」ユダヤ人著者が語ったこと。
https://www.buzzfeed.com/sakimizoroki/sapiens-interview?utm_term=.uq2KJGA8a#.wlJ9kgj0z
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1.ヒトの最大の特長
 『人類は、地球の歴史上初めて「認知能力」と「言語」を獲得した。
 これが(ほかの生物に対しての)圧倒的な地位を築いた。』

(1)認知とメタ認知
 人間だけが獲得した「認知能力」には、知覚、判断、想像、推論、決定、記憶、言語理解力などがある。
 「人が人としてたり得る」要素であり、これが失われると「認知症」となる。
 最近では「メタ認知」能力がより重要視され、「メタ認知」能力は「仕事を成功させていくのに必須な能力」とされる。
 「メタ認知」能力とは「自分が周りからどう見えているか」「どう思われているか」「自分の発言がどういう影響を与えるのか」といった「自己客観視」できる能力。
 「現実の自分」を客観視している「もう1人の自分」という感覚。
 例えば「自分のキャパをオーバーする仕事まで引き受けてしまう人」は、メタ認知能力が低い。
 自分で「自分が処理できる仕事量を、客観視できていない」ということ。
 また「メタ認知」能力が低い人というのは、世の中は「自分の考えや意見と違う人ばかりだし、それで全然良い」という事実をうまく受け入れられず、自分の考えと違う意見が出る度に否定したくなる、攻撃したくなる。
(どんな意見があったっていいのに(笑))

(2)非認知能力
 「社会的な成功」のためには「非認知能力」こそ必要、という指摘もある。
 「非認知能力」とは、忍耐力・意欲・自信・協調性・粘り強さ・計画性・リーダーシップ、克服する力などで、幼児期の教育が重要と言われる。
 現在の学校教育の学力・成績は、重要度から言えば、せいぜい3番目以降である。
(成功した経営者の学歴に「中退」が多いのも、うなずけますね(笑))

*「メタ認知」的に、こんな長文、読む人いるのかな(笑)

2.農業革命
「農業革命によって、地主(経営者)と労働者が生まれ、搾取と支配階級が生まれた。」

 つまり、人類初の「不平等」が生まれた。
 搾取される奴隷や労働者は、当然、以前よりも不幸になり、支配階級は「より多く幸せを感じられる立場」「生活の質を急上昇できる立場」となった。
 新しく生まれた支配階級によって、貨幣経済による、より強固な資本主義体制が(自分たちに有利な勝手なルールで)築かれていった。
 それは「富の移転」を前提とした、「持つ者」と「持たざる者(取り上げられる者)」の支配体制である。
 ただし、労働者(の立場)から経営(統治)側へ、立場を逆転できる道は残されている。

3.貨幣・国・宗教という虚構
「国や宗教は虚構に過ぎないのに、虚構に振り回される人が多い。」

 そんな虚構のために、殺し合いをするぐらいなら、国も宗教も、この世からなくしてしまえばいい。
 「愛国心」とか「信心深い」とか、基本的にずれている(笑)
 「権威」付けを盲目的に信じる人が多い。実質的な価値がないものにまで。
 何の価値もない、つまらない「権威」に、盲目的に騙されているのは、今でもオレオレ詐欺に騙されてる人と、何も変わらない。
 全然、詐欺に引っかかっている人を笑えない、同じくらい簡単に騙されているから(笑)

4.経済成長と不平等
「資本主義の目的は、マーケットを中心とした経済成長であり、世界中のあらゆる地域を良くしようということではない。」

 20世紀は「マスの時代」であり、働く「すべての人」に「富を生み出す」価値があった。
 21世紀は「個」の時代となり、テクノロジーの発達によって、「小規模な、もっと言えば「個」の力で、圧倒的な経済的価値を生み出せる」時代となった。
 マスの時代は終わり、人類の大半(36億人)が生み出す「富」と、世界のトップ62人が保有する「個」の資産が「同額」となった。
*世界36億人の平均資産額が5万円に対し、トップ62人の平均資産額は3兆円。

5.命の「不平等」の誕生
 現代の最新医療では、「加齢」も「死」も、他の病気と同じ「技術的な問題」になりつつある。

 現状「人が死ぬ」のは、心臓の鼓動が止まったり(心肺停止)、血管が詰まったり、出血するからであって、これらはすべて技術的な問題に過ぎない。
 心臓でも、肺でも、どの臓器でも、何か問題が起きれば、自分の「IPS細胞」から、いくらでも新品の元気な臓器を作り出して、移植すればいい。

*老化の原因と考えられる「テロメアの短縮」を修復する酵素「テロメラーゼ」を活性化する方法が見つかれば、人は永遠に細胞分裂を繰り返すことができ、寿命がなくなる可能性が高い。
*長期の生存によって生じる「DNAの損傷」や「活性酸素から受けるダメージ」も、定期的に、自己幹細胞から生成した「新品」と取り替えてしまえばいい。

 「死」が「技術的な問題」になれば「解決可能」なことなので、ついに「お金さえあれば、死ななくて済む」時代、つまり「死とは、1つのオプションに過ぎない」時代を迎えつつある。
 これは、人であれば、万人に平等であったはずの「死」を、「不平等」なものにする。
 農業革命以降に生じた「地位の不平等」が、医療革命によって、今度は「貧者は(これまでどおりに)死ぬ」が「裕福な者は生き続ける」という「命の不平等」を生み出す。

6.超人に代わる未来
「人間の進化、人間の次に来る生物は何か」と考えれば「バイオニック・コンピュータによるサイボーグ超人である可能性が高い。」

 最近よく「シンギュラリティに対する不安、心配、恐怖」が指摘されるが、それは「人間だけが、人工知能から取り残される」と考えるから、「人間がマシンに支配されるのでは」という話になってしまう。
 そうではなく、自分の脳と人工知能を合体させ、人間とマシンが一体となった「新しい生命体」に、人間そのものをマシンと一緒に「進化」させればいい。
 人類に、AIの力をも取り込み、脳(能力)を異次元なほど高度に、拡張・進化できた時、新生命体が誕生する。
 そうなった時、進化した新生命体が「永遠に飛び続けられるエネルギー源を持つ宇宙船」を開発し、不死となって、全宇宙へ冒険していく時代が来るのだろう。
 たとえ何億光年かかろうとも、関係なくなるのだから。

*「食料」とはすべて、窒素、炭素、酸素、水素で構成される物質であるため、それらの組合せで、いくらでも合成できる。
 これらの物質を、宇宙空間に漂う惑星などから入手・保管できるしくみがあれば、新生命体が必要とする栄養分も、何億年でも不自由しない。

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『NHKスペシャル マネー・ワールド 資本主義の未来 第3集』について [Essey]

『NHKスペシャル マネー・ワールド 資本主義の未来
 第3集 巨大格差 その果てに』について

 番組を観ながら、「自分になりに気づいたこと」をまとめてみました。

 すでに観終わった方向けの思い切り踏み込んだ内容なので、まだ観ていない方はご注意ください。

*「もう観た方を対象に」ということで、番組自体の内容は省略します。

*あくまで個人的な「気づき」ですので、番組内では語られていないこと、番組での解釈とは違う場合があります。

*そして、ここに書いたことが、自分と違うからって反論しないでくださいね(笑)
(人それぞれ受け取り方がありますし、何も「人と同じ考えにしなければいけない」わけではないですので(笑))

<1>
 シアトルの決済代行会社『グラビティ・ペイメンツ』のダン・プライスCEOは、全社員の最低年収を7万ドル(約830万円)に引き上げた。

 それまでの全社員の平均年収は、4万8000ドル(約576万円)であり、自分の報酬は、自ら、それまでの10分の1以下にあたる「社員と同じ」7万ドルまで引き下げた。

 この判断のベースとなったのは、「人は、年収が7万5000ドルに達するまで、収入の増加に比例して、幸福度も増加していくが、7万5000ドルを超えると、幸福度は上がらない」という、ダニエル・カーネマン氏(2002年ノーベル経済学賞受賞)とアンガス・ディートン氏(2015年ノーベル経済学賞受賞)が共同執筆した論文による。

 「国家」が不要となる今、人々は「より優れた経営者のもとに集まる」ようになっていくだろう。

 国家よりも、優れた統治能力のある企業が「国家を超えていく時代」の始まり。

<2>
 「富の格差」をなくそうとした「社会主義・共産主義」は、結局は「各自の努力の差を生まない社会」と同義になり、人々からやる気を失わせ、崩壊した。

 金融資本主義は「実体経済を独占した者たち」がさらに「仮想経済」で(実体を超えて)巨額を手中にし、巨大化し過ぎた「巨大資本所有者たち」が自分たちに有利になる社会への変更を求め、「再選だけが目的の政治家たち」を動かし、巨大資本のための優遇体制が構築されていった。

 「古き良き時代」においては、国家の力が企業よりも強かったので、巨大資本に対する応分の税負担が行われ、低所得者への所得再配分によって、中流階層が増加し、経済活動に活力が生まれていた。

 今や、国家と企業の力が逆転し、現在の政治体制では、今後も「富の格差」は拡大し続け、人々からやる気を失わせ(「働くだけ無駄」という諦め、真面目に働いても稼げないワーキングプア状態)、崩壊していくほかはない。

 もはや、遅かれ早かれ、国家に見切りをつけ、新時代の「企業統治体制」に向かわざるを得ない時代となった。

<3>
 「共有型経済(シェアリングエコノミー)」の中に、完全にお互いに「無償で貸し合う」形態も登場してきた。

 オランダアムステルダムでは、日用品を無料で貸し合うコミュニティが形成され、経済活動規模は、10億ユーロ相当になっている。

 このようなコミュニティの形成は、一見、良さそうに見えるが(表層的には理想的なようにも思えるが)、これまでの歴史のとおり、同じく、結局は「まったく富の移転を伴わない」ので、(無償でいくらでも借りられるのに、一体何のために努力する必要があるのかという根源的な)人々からやる気を失わせ、遅かれ早かれ、崩壊するほかないだろう。

 よって、シェアリングエコノミーには、相応の「対価」が伴う必要がある。

<まとめ>

 この番組を観ていてわかったこと、「新たな気づきを得られた」こと ↓

『これからの時代は、今まで存在すらしていなかった、人類にとってのまったく新しい社会「企業統治(無国家)資本主義の時代」へ変革されていくだろう。』
by Virai

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『NHKスペシャル マネー・ワールド 資本主義の未来 第2集』について [Essey]

『NHKスペシャル マネー・ワールド 資本主義の未来
 第2集 国家 vs 超巨大企業』について

 番組を観ながら、「自分になりに気づいたこと」をまとめてみました。

 すでに観終わった方向けの思い切り踏み込んだ内容なので、まだ観ていない方はご注意ください。

*「もう観た方を対象に」ということで、番組自体の内容は省略します。

*あくまで個人的な「気づき」ですので、番組内では語られていないこと、番組での解釈とは違う場合があります。

*そして、ここに書いたことが、自分と違うからって反論しないでくださいね(笑)
(人それぞれ受け取り方がありますし、何も「人と同じ考えにしなければいけない」わけではないですので(笑))

<1>
 いくつかの「スーパーグローバル企業」が、多くの中小国の国家歳入を上回り、すでに「国の規模」になっている。

 超巨大企業が「国家」を超越し、国家を凌ぐ、より優れた「企業統治」が始まっている。

 つまり、これまでの「国家」より、「優秀な経営者が行う企業統治」の方が、人々を豊かに、幸せにできる時代が来た。

<2>
 優れた経営者による「企業統治」が「国家を上回る」ことにより、もう、低レベルで無能な「政治家」たち、政府、官僚、自治体が「統治」する時代は、終わった。

 ヒラリートランプ、メルケルやオランドなんかに「統治」されるより、はるかに、圧倒的に優れた「経営者が行う統治」の方が、よほど良いのは、あまりにも当たり前のこと。

 日本にしても、安倍首相なんかより、稲盛和夫さんや豊田章男さんに「日本を経営」してもらった方が、はるかに「良い世の中になる」のは間違いない。

 ようやく人類は、不要となった「国家」を解体し、「企業単位」の国家の代替(置き換え)、「企業統治による世界平和」の道へ歩み出した。

<3>
 「国家を上回る企業」が、無知無能な「政治家」たちが統治する国を相手に訴訟を起こし、次々に勝訴し、巨額を得ている。

 無能な「政治家」たちのせいで、片っ端から敗訴したエクアドルでは、年間国家歳入額の半分が、いくつかの超巨大企業に支払われ、財政危機に陥っている。

 半分もの国家予算が消失したため、公共コストが削られ、社会保障費の支払いがストップし、住民の生活が窮地に陥っている。

 無能な「政治家たちに統治される住民の悲劇」の典型。

 実は「TPP」も、日本の無能な「政治家たち」のアクションによっては、超巨大企業が日本相手に訴訟を起こし、日本の国家予算から、巨額を回収するしくみ(リスク回避策)が組み込まれてある。

 当のアメリカでは、とっくに「TPPは否定」されているのに、日本で今「TPPに賛成」と言っている「政治家」たちの(恐ろしくなるほどの)無能さ、マヌケさ。

<まとめ>
 この番組を観ていてわかったこと、「新たな気づきを得られた」こと ↓

『今や国家など不要。優秀な経営者による企業統治の時代が来た。

 国籍も、人種も、国境も、関係ない。愛国心も不要。

 国家が消失すれば、戦争を起こす理由も失う。

 経済性を優先する「企業統治」において、経済的マイナスの塊「戦争」を起こすような(今の政治家たちのような)無能な経営者は排除される。』

by Virai

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『NHKスペシャル マネー・ワールド 資本主義の未来 第1集』について [Essey]

『NHKスペシャル マネー・ワールド 資本主義の未来
 第1集 世界の成長は続くのか』について

 番組を観ながら、「自分になりに気づいたこと」をまとめてみました。

 すでに観終わった方向けの思い切り踏み込んだ内容なので、まだ観ていない方はご注意ください。

*「もう観た方を対象に」ということで、番組自体の内容は省略します。

*あくまで個人的な「気づき」ですので、番組内では語られていないこと、番組での解釈とは違う場合があります。

*そして、ここに書いたことが、自分と違うからって反論しないでくださいね(笑)
(人それぞれ受け取り方がありますし、何も「人と同じ考えにしなければいけない」わけではないですので(笑))

<1>実体経済の成長とは

 産業革命後、欧米列強が世界中に進出し(日本も戦後、その流れに追随)、爆発的な経済成長を続けてきた。

 各先進国が、ありとあらゆる国に進出し尽くしたところで、経済成長がストップ

 「モノ」を伴う「実体経済」の「成長限界」を迎えた。

<2>仮想経済の成長とは

 ストップした「実体経済における成長」の「代替」として、「実体経済」ではない「仮想空間における経済成長」というものを、人類は新たに創り出し、再び、爆発的な経済成長が再開された。

 いわゆる「お金がお金を生む」という、「金融商品そのものに巨額投資され、価格が上がり、さらに投資を生み出す、「仮想価値」の拡大再生産金融システム

 そして「仮想空間における経済成長」も限界に達し、リーマンショックで経済成長がストップ。

 「仮想経済の成長」の限界を迎えた。

<3>第3の経済成長の源泉とは

 では、次なる「第3の手」は何か?

 それが「AI」を中心とした「イノベーション経済」であり、革新的な「シェアリングエコノミー」である。

 「AI」による、これまでの「人類の能力」を超えた、新たな「価値創造」による「経済成長」。生産性の向上。

 ほぼ「生産コスト」をかけずに「価値」だけを生み出す「シェアリングエコノミー」。

<まとめ>
 この番組を観ていてわかったこと、「新たな気づきを得られた」こと ↓

『「経済成長」とは、いずれにしても(どのような形態に変化したとしても)結局は「富の移転」である。』
by Virai

*「開発途上国から先進国への「富の移転」であり、「仮想空間における(上がり、下がりによる)「富の移転」である。

 そして、これからは「人類の能力」を超えた「AIの能力」を、人類の富として移転していく世の中になるのであろう。

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人間は5感なのか [Essey]

 古来から、人間の感覚機能は、5分類の「五感」と言われます。

1.視覚
2.聴覚
3.嗅覚
4.味覚
5.触覚

 もともとは、古代ギリシャ、アリストテレスの分類に始まるようですが、この伝統的な分類に、昔から違和感を感じています(笑)

 なぜなら、言葉としてすでに「直感」「山勘(勘が当たる)」という語句、概念があるからです。じゃあ、これらは何なんだと(笑)
 「5」じゃないよねという(笑)

 そして、五感を超える、理屈では説明しがたい、6つ目の「第六感」という言葉もありますね。

 シャマラン監督、ブルースウィリス主演の「sixth sense」という映画もありました。
 映画では「霊感」(霊性意識)として表現されていました。

 でも、自分自身ではっきりと、認識できている感覚は、次の「11感」あります(笑)

6.平衡感覚(バランス感覚:自身の“中心点”を感じ取れる感覚)
7.時間感覚(どのくらいの時間が経過したかを感じ取れる感覚)
8.位置(方向)感覚(俯瞰した目で、位置関係を感じ取れる感覚)
9.運動感覚(運動時特有の、ボールの方向性や着地点などを感じる感覚)
10.危険察知能力(センサー:危険性を感じ取れる感覚)
11.他者からの視線を感じ取る(センサー:いわゆる“気配”を感じる)

 ここまでの「11感」は、ほとんどの人が感じる感覚機能と思います。

 さらに、そこまで明確ではないけれども、「いつもではないけど、たまに」とか「緊急時には」とか、「なんとなく」といった不定期で、深度もさまざまなものがあると感じています。

12.直感・インスピレーション(ひらめき・瞬間的に感じる感性)
13.何かを選択する時の勘(山勘:たぶんこっちと思い、結構当たる(笑))
14.予知(虫の知らせ:何かの前兆を感じ取る感覚)
15.デジャヴ(既視感:実際は一度も体験したないのに、既にどこかで体験したことがあるように感じる感覚)

 ということで、自分は、少なくとも「15感はある」と認識しています(笑)
 たったの「5感」のわけがないです(笑)
 そんなの「人として」少な過ぎるでしょと(笑)

 あるいは、病気や事故などで、視覚や聴覚を失った方が、その後、別のセンサーが先鋭的に発達していき、日常生活を補完していることは、よく見聞きすることです。

 実際には、人間には、かなり高い能力があり、日々、その能力をを研ぎ澄ましていくことで、相当な能力を発揮できるのではないかと思います。

 イチロー選手の活躍やインタビューなどを見聞きすると、特にそれを感じます。

 日々、(ぼうっとしていないで(笑))「自分で自分の感覚を研ぎ澄ます」ようにしていないと、もったいないですね(笑)

「やる気」=「強い意欲」とは何かを考えてみる [Essey]

 よく「やる気が出ない」「モチベーションがわかない」という話を聞きます。

 なぜなのかと考えてみると、「やる気」=「強い意欲」の原動力は「欲求」です。

 マズローの「欲求段階説」ですね。
http://www.motivation-up.com/motivation/maslow.html

 「こうしたい」「こうなりたい」「これを達成したい」といった「欲求」がないと、「やる気」が出るはずがありません。

 例えば、「学校での勉強にやる気が出ない」という人に対して、「勉強したくでも、貧困や戦乱などで勉強できない人もいる。勉強できる恵まれた環境にいるのだから、勉強しなさい」と言われても、「やる気」は出ないでしょう。

 一昔前の「高度経済成長期」では、このような「外発的動機づけ」が「良い大学に入って、大企業に入れば、幸せな人生が送れるのだから、勉強しなさい」でしたが、今ではすっかり空虚なものとなりました。

 このような「辿り着くべきゴールがぼやけている」状態では、普通の人間なら、「やる気」など出るはずがなく、勉強したい意欲がわかないのは、むしろ普通です。

 「環境がありがたいんだから勉強しろ」といった程度の「外発的動機づけ」をしたところで、長続きしませんし、心から意欲的になれませんし、強制されている感覚、「仕方なくやっている」感じにならざるを得ません。

 そうではなく、その人に、どんな「欲求」を喚起させるかですよね。

 自ら「やる気」を出すには、「内発的動機づけ」が必要であり、例えば、目標への達成欲求、自己成長欲求、達成感、満足感、充足感、自己への報酬などですね。

 この「内発的動機づけ」に裏付けられた、興味や意欲によってもたらされる行動は、そのように「行動する」という「行動そのもの」が目的化するので、誰にも何も言われなくても勝手にやるし、たとえやめろと言われてもやり続けます。

 それこそ「好きこそものの上手なれ」ですね。

 「好き」なことは勝手にやるし、「情熱」のレベルが違うし、寝食を忘れて、夢中になり、没頭します。

 「好き」なものには、勝手に情熱が湧き出し、高いレベルのモチベーションを保ち続けられます。

 そういう意味では、東京大学合格者へのヒアリング番組とか観ていると、多くの人が「勉強すること自体が好き」と答えていますね。

 「勉強する」という「行動」が好き、ということですね。

 「外発的動機づけ」で無理強いするのではなく、その人にあった、その人が夢中になれるだけの「内発的動機づけ」を喚起するということですね。

 「こうなりたい」「これを達成したい」「これを実現したい」から、そのために「今、この勉強をする」ということですね。

 サッカーでも、「試合に勝ちたい」「優勝したい」「選抜に入りたい」から、そのために「今、きつい練習をする」「毎日筋トレして筋力をアップする」というのは同じですね。

 その人なりの「内発的動機づけ」さえ見つかれば、たとえ止められても、勝手にし続けます。

 自分の場合を考えてみると、子どもの頃からずっと、自分の「やる気」=「強い意欲」の原動力は、とにかく、ひたすら「頭が良くなりたい」ということだったのかと思います。

 たとえ、一歩でも、二歩でも。

 毎日、半歩ずつで良いから、少しずつ「頭が良くなったらいいな」という「強い意欲」です。

 その「強い意欲」に対しては、「達成目標」も「ゴール」も「成功報酬」も必要ありません。

 なぜかと言えば、まず「頭が良い人が好き」です。いいな、羨ましいな、自分もあんなふうになりたいなと思います。

 そして、わずかずつでも「頭が良くなっていく自分」が「好き」です。

 今思うと、学生時代の自分は、なんて馬鹿だったのだろうと思います。ひどかったです(笑)

 少しは向上している自分が好きですし、もっともっと向上していきたいという「強い意欲」に溢れています。

 よく「その行動は、内発的動機づけによるものか」という自己チェック方法として、
「それは、頼まれなくてもやりたいことですか?」
「それは、お金を払ってでもやりたいことですか?」
というのがあります。

 自分は、頼まれなくても、お金を払ってでも、頭が良くなりたいです、と断言できます(笑)

 それが自分にとっての「自己実現」なのかもしれません。

 といったメンタル面とあわせて、「やる気」の源は「ドーパミン」なので、これも十分に分泌されるだけの体調管理も必要ですね。

 運動・ホルモンの調節、意欲・学習・感情に関わる神経伝達物質であるドーパミンの原料は、たんぱく質なので、必須アミノ酸やアミノ酸を含む食品を取ることが大切ですし、ビタミンB群、ミネラル(鉄分)が必要となりますね。

 そして、運動、笑う、音楽を聴く、歌うことがドーパミンの放出を促しますね。
http://kokoroup.net/dopamine/

『「どんなこと」でも深く考え、すぐにわからなければ考え続け、自分のオリジナルのロジックを構成・構築し、自分のオリジナルの結論を導き出すことこそ、脳のトレーニングであり、自分の脳を成長させるための方法である。』by Virai