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映画「哭声/コクソン」完全 解説 [Movie]

 先日、たまたまWOWOWをつけたら、この映画がちょうど始まって、なんとなく観ているうちに、その強烈さに、ついつい最後まで観てしまいました。

 そしてこれまた「いろいろと解釈が分かれる作り」になっていて、ネット上でもかなり異なる解釈が乱れ飛んでいました。

 2016年の映画ですし、自分なりの解釈をブログにして載せるかどうか、しばらく躊躇していたのですが(笑)、いろいろ考え直したり、もう1回見直したりしているうちに、考えがまとまってしまったので(笑)、久しぶりの「完全解説」にすることにしました(笑)

*すでに映画を観終わった方向けの思い切り踏み込んだ詳細解説なので、まだ観ていない方はご注意ください。

 もちろん、あくまで自分独自の「解釈」なので、自分と違うからって反論しないでくださいね(笑)

 人それぞれ受け取り方が違いますし、違って良いのですし、映画をどう楽しんでも良いわけで。

 あなたの考えを私の考えに合わせる必要はありませんし、私の考えをあなたの考えに合わせる必要もありません。

 初めから「人によって考えが違う」ことは、もうわかっているので(笑)、わざわざ「自分は違う」「それは違う」と表明しなくて大丈夫です(笑)

 この人はこういう受け取り方をしたのね、ぐらいな感じで、参照程度でお願いします。

◆この映画の「世界観」について

 韓国の静かな山間部にある村、コクソン(谷城)で、家族内や近親者による、異様で猟奇的な、一家皆殺し事件が続発し、その原因として、謎の日本人(國村隼)が関わっていると噂されます。

 その真偽が不明なまま、主人公の中年警官の娘に、同じような異変が始まり、主人公が次第に噂を信じ始め、警官であるにもかかわらず、娘の異常事態に、徐々に常軌を逸し始めます。

 娘を助けたい一心で、謎の日本人を殺さなければと思い詰め、狂態に走って行くという「韓国ならでは」という感じのオカルト・ミステリー・サスペンスですね。

*ちなみに、韓国では(この猟奇的な暗さなのに)空前の大ヒットだったようです(笑)

◆映画公開時のインタビューに答えた監督自身の言葉とは

 本編上映後、ナ・ホンジン監督は、インタビューで、

「この映画のテーマは、“混沌・混乱・疑惑”であり、作品の解釈は、観客それぞれの判断にゆだねたい」

と答え、わざと解釈が分かれる作りにしているとのことでした。

 監督としては、そこを楽しんで欲しいということなのでしょうね。

 そして、ナ・ホンジン監督はクリスチャンであり、同時に「韓国のキリスト教」は今、独特な状況下にある、という点も含み置きたいところですね。

*「統一教会(世界基督教統一神霊協会‎)」による各種の所業、「聖神中央教会事件(信者の少女を強姦)」「摂理(キリスト教福音宣教会)の教祖である鄭明析が、多数の犯罪容疑で国際指名手配に」「天父教の協会が所有する山林から1000体以上の遺体が出てきた事件」など。

◆「解釈」の手がかりになる要素について

1.旧約聖書と新約聖書の世界観について

 映画の冒頭に、新約聖書からの引用である、次のテロップが流れます。

(十字架にかけられて死んだのに、また生き返ったキリストを見た人々に対して)

「人々は恐れおののき、霊を見ていると思った。
 そこでイエスは言った。なぜ心に疑いを持つのか。

 私の手足を見よ。まさに私だ。触れてみよ。
 このとおり肉も骨もある。

 ルカによる福音書24章37-39節」

 監督の意図としては、旧約聖書と新約聖書の世界観を持ち込むということだったようですね。

 「旧約聖書の世界」というのは、ユダヤ時代のエルサレムであり、そこに(よそ者である)イエス=キリストがやって来ると。

*旧約聖書の概要
 神がこの世を作った天地創造、アダムとイブの話、ユダヤ教、ノアの方舟、モーセの十戒など。

 そこからのエピソードが「新約聖書の世界」であり、エルサレムの住人たちをコクソンの村人に置き換え、謎の日本人(國村隼)をイエスと置き換えることで、映画のラストシーンに繰り返される台詞に帰結していくと。

 謎の日本人が、

「私が何者か、いくら言ったところで、お前の考えは変わらない」

「どうして、心に疑いを持つのか?」
「私の手や足を見なさい」「まさに、私だ」

と、冒頭の新約聖書「ルカによる福音書」を伏線とする言葉を言うと、そのようすを見ている神父「イサムの目」には、目が赤く光る、長い爪を持った毛だらけの、まさに「悪霊」として見えていきます。

 イサムは、目の前にいる者を「神ではなく、悪魔だと信じて見ている」から、(その心情が投影されて)そう見えていくのだと。

 また別の人が、異なる心情で、同じ姿を見たら、別の姿に見えるかもしれないということなのでしょう。

2.「神と悪魔」を同時にイメージさせる演出

 映画が始まると、謎の日本人(國村隼)が、釣り針に餌をつけて釣りをするシーンから始まり、その直後、その場に居た女性に「この薄汚い淫売が」と言って、あたかもレイプするようなカットからスタートします。

 天国から地上人を釣り上げるのは神様であり、女性をレイプするのは悪魔的所業であり、常に同時性、並列性で演出しようとする、監督の意図を感じるシーンに感じました。

3.惨殺事件に対する「現実的な原因」と「オカルト的要素」の並列性について

 猟奇殺人の犯人はすべて、徐々に正気を失い、皮膚に赤い湿疹が増えていき、全身を覆う頃に実行に及ぶ、ということが示されます。

 その経緯が、主人公の中年警官の娘に、同じような異変が起こることで、主人公の焦りが増していき、「なんとかしなければ、このままでは」という行動の理由、徐々に追い詰められて、異常行動に走って行く理由として示されます。

 映画の序盤では、主人公は警官なのに、ビビりで、弱々しくて、温厚であることを、伏線として、いろいろなシーンで示されます。

 連続猟奇的殺人犯に対する鑑識の結果、犯人全員の体内から「毒キノコ」の成分が検出され、幻覚作用によって正気を失わせ、赤い湿疹を生じさせ、錯乱状態に陥り、狂気的な行動を取った原因という見解が示されます。

 錯乱し、首をつって自殺した女(=謎の日本人にレイプされたという噂の女)からも、幻覚性「毒キノコ」の成分が検出されます。

 そして、警察から「幻覚作用のある毒キノコが健康食品に使われ、それを食べた市民による殺人事件が相次いでいる」という発表があります。

 にもかかわらず、村人たちはなぜか、よそ者(=謎の日本人)の仕業だと噂し、あの男に「何かをされて、おかしくなった」と信じ込んでいきます。

 さらに、主人公の娘が、おばあさんをはさみで刺して、重傷を負わせます。

 するとなぜか、娘の家族たちは、これは悪霊の仕業に違いないと、高名な祈祷師に助けを求めます。
 謎の日本人は悪魔であり、それを退治してくれるのは、祈祷師だと。

 観ているこっちとしては、いやいや、健康食品に使われた「幻覚作用のある毒キノコ」はどうしたんだと。
 まずは解毒剤でも飲むのが先でしょうと。

 ところが、この祈祷師が悪魔払いの儀式を始めると、娘のヒョジンも悶え苦しみ出します。

 祈祷師が、悪霊に見立てた木偶の胸や腹に、次々に鉄の杭を打ち込むと、娘は、その杭が打たれた場所を押さえて絶叫します。

 そして、同時に実は、謎の日本人も、山奥で祈祷しています。
 その祭壇に供えられている写真は、森の中の軽トラックで発見した腐乱死体である、胸に「パク・チュンベ」と書かれた服を着た男です。

 すると、軽トラの中のパクの遺体が、息を吹き返したかのように微かに動きます。

 この2つ祈祷が交錯することで、鑑賞者は、「祈祷師が悪魔払いで謎の日本人を攻撃」し、「謎の日本人は、娘を攻撃している」ようにも見えます。

 同時に、見方を変えると、祈祷師が木偶の胸や腹に鉄の杭を打ち込むたびに、同じ箇所を娘が痛がるので、祈祷師が娘を攻撃しているようにも見え、それで娘が「お願い、祈祷をやめて」と言っているようにも見えます。

 あるいは、謎の日本人が、腐乱死体の写真を掲げて祈祷し、死体が息を吹き返すことで、死んだ者を蘇らせる神の奇跡のようにも見えてきます。

 そして、死体を蘇らせた「代償」として、謎の日本人が、祈祷師が杭を打つのとは別の箇所を抱えて苦しみ、死の直前まで、死の淵にまで達します。

 祈祷がクライマックスに近づくにつれ、娘があまりにも苦しみ、もう1度「お願い、祈祷をやめて」と訴えるため、その苦悶の姿を見るに忍びなくなった主人公が、強引に中止させてしまいます。

 すると娘は、落ち着きを取り戻します。と同時に、謎の日本人もギリギリ命を取り留めたようにも見えます。

 このオカルトチックな展開は、なんなのでしょう。

 赤い湿疹や錯乱状態は、幻覚性「毒キノコ」が原因ではなかったのかと。
 なぜ、祈祷なんかに、左右されるんだと。

 さらには、なんで、腐乱死体まで、蘇るんだと。

4.オカルトチックなストーリー全開の展開へ

 主人公は、「娘の異常は、謎の日本人のせい」と思い詰め、警官であるにも関わらず、殺しに行こうとします。

 するとなぜか、謎の日本人が蘇らせた、腐乱死体「パク・チュンベ」が、ゾンビのような状態で、襲って来ます。

 頭を農具で突き刺しても、その動きを止めません。

 めちゃくちゃに攻撃して、やっと動きを止めさせると、謎の日本人がこっちを見ているのを見つけ、みんなで追いかけますが、逃げられます。

 しかたなく諦めて、トラックで帰る帰り道、女祈祷師が謎の日本人に見つかり、なぜか追いかけられ、崖の寸前で身をかわすと、謎の日本人が崖から落ちてきます。

 すると、タイミング良く、主人公が運転するトラックが、謎の日本人をはね飛ばします。

 主人公は、はね飛ばした人を確認しようと、恐る恐るトラックから降りて近づいて行くと、道路で死んでいたのは謎の日本人だったので、崖下に投げ捨てます。

 女祈祷師は、その一連のようすを、崖の上からずっと見ています。

5.観る者の心情次第で、真逆にも見える「二面性」の提示

 結局、この映画は「観る者が、“どう見るか”次第で、真逆にも見える「二面性」を提示したかった」のかなと思いました。

 「一方的な見方」に対する「危険性」の提示、先入観や思い込みに対する全面否定、自分自身の「見方」次第で、物事は「救済」にも「絶望」にもなり得るんだと。

 その「二面性」は例えば、映画の登場順で言えば、「謎の日本人」は、映画の最終盤で「手に聖痕があることが示され、十字架に吊されたキリスト」であること、1度死んでも、蘇った者=神の存在であること。

 逆に、神父でさえ、信じる心がなければ「悪魔」そのものに見える存在にもなり得ること。

 主人公は、ビビりで、弱々しくて、温厚であったのに、娘の異常事態に直面すれば、警察官であるにもかかわらず、すべての道徳を捨て、殺してやると思い詰める、あそこまで狂っていくのかという二面性。

 男の祈祷師も、女の祈祷師も、本物の、実力もある祈祷師であり、嘘はないし、すべて本当のことしか言っていないと。

 ただし、その時の「見方」によって、偽物のようにも、嘘を言っているようにも見えるし、「善」側にも、「悪」側にも見えると。

 男の祈祷師は、旧約聖書側の「ユダヤ教の司祭」であり、初めは(彼にとっての異端者である)謎の日本人を「悪の根源」と考え、のちに「実はキリストであった」と気づくと。

 女の祈祷師は、新約聖書側の「キリスト教のシャーマン」であり、キリストを迫害する「ユダヤ教徒」を敵対視すると。

 しかし、男の祈祷師がその後改心し、謎の日本人=キリストを受け入れることで、主人公に「2人がグルだ」と言うと。

 そして、今だに改心しない主人公に、「罠を仕掛けた」と言い、キリスト側を信じれば救われるのに、信じないなら、最悪の事態になるという選択肢=最後のチャンスを提示すると。

 なのに主人公は、最後まで信じることができず、結界を破って、最後の「魔除けの花」が枯れ、(キリスト側の教徒となった)娘に刺されてしまうと。

 結局、神も悪魔も、それを見る者の「見方」次第であり、見方を変えればありがたいものにもなり、違う見方ををすれば恐ろしいものにもなると。

 善も悪も、同時に両方が存在し、一人ひとり「異なる」ものであり、「見方」次第で、真逆にもなるし、不要な、余計な、勝手な先入観が、人々を狂わせていくのだと。

 このような「善悪の定義」については、「性善説と性悪説について考える」で考察したとおりです。

 単なる「猟奇的なオカルト」ではなく、哲学的な宗教観に基づく、韓国の「キリスト教」観という、特殊な事情に基づく、深い映画でしたね。

<外部参照サイト>
◇國村隼インタビュー
https://spice.eplus.jp/articles/108502
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学校教育を考える<5> [Essey]

 日本では戦後復興していく中、教育基本法で「教育の中立性」を謳いつつ、教育委員会と日教組という対立構造が組み込まれていきます。

 このような手法は、各国への内政干渉と同様、まとまりのない社会を作り上げるための、典型的なやり方となっています。

 中教審や臨教審といった組織を立上げ、支配者側が進めたい方向へ、自分たちの意向を反映させるためのシステム作りと言えます。

 軍人を育てるための兵学校と同様、すべての学校は、チャイムが鳴るとともに始まり、チャイムが鳴るとともに終わる、厳格なタイムスケジュールで運用されます。

 授業開始のチャイムさえ鳴れば、嫌でも席につき、どんなにつまらない授業でも、次のチャイムが鳴るまで、じっと我慢して座っていることを強制されます。

 食事の時間も、みんなと一緒に、同じ物を、決められた時間内に、食べ終わなければなりません。

 時間通りに、集団行動することが、学校という空間を支配する基本的なルールであり、「義務」教育として、国民全員を放り込み、その習性を叩き込むわけです。

 それこそが最大の目的である以上、学校で「勉強を教える」のは2の次であり、学校以外に「塾に通う」などという、バカげたことが成り立つ社会状況となっているわけです。

 さらに言えば、今だに、あちこちで問題視される「社会の実情とは大きく乖離した、学校独自のおかしな校則」についても、そもそもの目的が(兵士として)「集団のルールに従うことを仕込むための学校」という視点から見れば、その奇妙さが「なぜなのか」という意味がわかります。

 異常さを表す校則の例では「天然パーマは、それを証明できる幼児期の写真を提出すること」「通学時は2列以下の横隊歩行し、道の右側を歩くこと」「目的もなく廊下を歩いてはいけない」「チャイムが鳴っている間は動いてはいけない」「スカートは膝上5センチまで」「ポニーテールは禁止」「父親以外の異性とは一緒に歩いてはいけない」「マフラー、手袋禁止」などですね(笑)

 これらはすべて、異常な「理不尽」な校則ですが、軍隊、兵学校と思えば、あり得る規則なのでしょう。

 登校時の服装チェック、教室での頭髪検査、持ち物検査など、まさしく「兵士育成学校」そのものであって、勉強とはまったく関係ないですね。

 ということで、日本の学校教育の奇妙さは、もともとが「国民国家と工業化社会の実現」という装置のために生まれた歴史的産物である、ということです。

 現在の学校教育を巡る議論に欠けているのは、こういった歴史的視点であり、これを改めるという発想がない限り、根本的な解決は望むべくもありませんね。

 以上、「なぜ、日本の学校教育はこんななのか、こういう状況になっているのはなぜなのか」を「考えてみる」でした。
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